Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

「字幕派vs吹き替え派」論争について思うこと

映画館

 

 

Twitterの映画クラスタ内で度々話題にのぼるのが、「洋画は字幕で見るか、吹き替えで見るか」論争だ。決して甲乙のつかない論争として「きのこvsたけのこ」が連想されるが、「字幕vs吹き替え」論争はそれ以上に議論する価値があると思う。

この論争に対する私の意見は、”基本的に洋画は字幕でしか見ないが、例外もある”だ。
これには2つ理由がある。

 

1つは長年の鑑賞習慣によって固定された体質的なもの。
2つ目は、吹き替えを行うと作品そのものが全くの別物に変容すると思うから。

 

吹き替え派の読者諸兄は、ここまで読んだ時点で怒り心頭して「son of a bitch!(アル・パチーノ風)」と心の中で毒づいているかもしれない。そんな『カリートの道』まっしぐらなタフガイは、ここでブラウザの戻るボタンを押してもらっても構わない。この論争自体、「コーヒーはブラックか、ミルク入りか」と同じくらい私的な領域だし、何よりも嗜好に関するものだ。とどのつまり個人の胸三寸なのだ。これは洋画を愛してやまない1人の映画ファンの意見として聴いてくれれば幸いである。

 

この記事を書くにあたって、どこかのインテリ映画マニアがこの論争を統計的にアプローチしていないか調べてみた。

 

 

ばらつきはあるものの、全体的に字幕派が吹き替え派よりもすこし多いようだ。ソース記事にある”声優によっては吹き替え派”というのは、ベン図でいうところの重複部分になる。かくいう私もここに属する。

では、吹き替えが主流というイメージが強い海外の事情はどうなっているだろう?

 

 

データまでは分からなかったが、やはり吹き替えがメインのようだ。

 

 字幕体質

イントロが長くなった。そろそろ本題に移ろう。

私の場合、洋画は字幕で見ないと背中がムズムズしてくる。別に吹き替えが嫌いだとか、そういうレベルの話ではない。10年近くも字幕で洋画を見続けてきた結果、後天的に体質が変化したのだと思う。長年の鑑賞習慣が、今の私の字幕体質をつくりあげた。海に潜る必要に迫られたペンギンが羽を変化させたように。

 

時計を10年前に戻そう。当時、鼻垂れ童貞だった私は1人の映画監督に夢中だった。私の思春期に、よしもと新喜劇的な勢いで殴り込みを駆けてきたのは他でもない、押井守その人である。映像作家に憧れた私は、押井監督のインタビューを読み「演出を学ぶには映画を見ろ」と薫陶を受けた。

 

押井守がどんなアニメ監督か知らない人のために、有名な監督である宮崎駿と比較した言葉がある。

宮崎駿の映画は100人が1回は見る。

押井守の映画は1人が100回は見る。

 

押井守とは (オシイマモルとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

当時、ボウフラ並の単細胞だった私は、BSプレミアムでほぼ毎日放送されていた洋画を貪り食うように見始めた。つまらない作品、抽象的なプロットの眠気を誘うフランス映画、VFX満載のハイバジェットなハリウッド映画。BSプレミアムの洋画放送は、今振り返って思うとチョイスが絶妙で幅広いジャンル・年代・国の映画を放送していたと思う。まるで運動部の走り込みのように、映画を見続ける生活を3年ほど送った。

 

年間300本以上は見ていたような気がする。映画のインプットは増えた。だが、今になって気がつくのはBSプレミアムで放送されていた洋画のほとんどが字幕だったということだ。

 

映画鑑賞は今でも継続しているが、私の映画的な土台ができあがったのは世間に背を向けて映画の世界に引きこもった童貞時代の3年間だ。この3年間、ずっと字幕で洋画を見続けいていたことになる。

 

この頃から、友人たちと映画館に映画を見に行っても、吹き替えだと言いしれぬ違和感を感じるようになった。吹き替えを何のフィルターも通さずに受け入れる友人を見て、自分と友人たちとの間に線を引かれたような気がした。

 

時計の針を更に戻そう。当時、私は小学生だった。家族サービスに疲れを感じた父親の多くがそうするように、私の父も母と私をよく映画館へ連れて行った。教科書的で、標本的な、絵に書いたような中産階級の休日の姿。その時見た映画は、『ハリーポッター』や『スター・ウォーズ』、ピクサー映画などのファミリームービーだった。映画の内容は今でも鮮明に覚えている。この時は字幕ではなく、すべて吹き替えで見ていたことも。当時は何の違和感もなく、吹き替えを受け入れることができていた。

ということは、やはり私の体質は映画漬けの3年間を境に変化したということになる。

 

吹き替えは作品に新しい命を吹き込む

誤解を恐れずに言えば——というか、恐れまくりなのだが——声優陣の見事なまでの吹き替えを施された洋画は、まったく新しい別の作品だと私は思う。

 

大塚芳忠氏とか、田中敦子嬢とか、若本規夫パイセンとか、7色の声と称される山寺宏一氏(逆シャアの時にギュネイ・ガス役で出演してた時はホントに気づかなかった。スパイク・スピーゲルは私の心の師。)

 

洋画吹き替えの常連声優によって演じられた途端、洋画のキャラクターたちは新しい命を得る。いい意味で、日本の声優さんは上手すぎる。『理由なき反抗』でスクリーンにジェームズ・ディーンが登場しても、池田秀一氏の声が聴こえると、一年戦争時のシャアが頭の片隅にちらついてしまう。

 

声優さんの声には、他の役の強力なイメージがつきまとう。どれだけ口調やイントネーション、声色を変えようが、声は声だ。

『カジノ・ロワイヤル』で大塚芳忠氏が演じるMrホワイトは、イェスパー・クリステンセンが演じたMrホワイトとは別の人格を持つ。

『パルプ・フィクション』でサミュエル・L・ジャクソン演じるジュールス・マンスフィールドは、大塚明夫パイセンが吹き替えたジュールスとは別のキャラクターなのだ。

 

字幕だから伝わるもの

吹き替えで見なければ、英語ネイティブと同等の情報量をセリフとして得られない。だが、字幕で見なければ、得られないものもある。

言葉の意味が分からなくとも伝わる部分がある。それは、ある種の感情や声の表情などの感覚的な部分だ。

 

例えば、『素晴らしき哉、人生』でやっと現実世界に帰ってきたジェームズ・スチュワートは心底嬉しそうな声で階段のポールにまでキスする。この時のキスの「ちゅっ」だけで、彼の溢れんばかりの嬉しさが言葉を介さずに伝わってくる。

プラダを着た悪魔』ではメリル・ストリープが抑揚を欠いた一定のトーンで、人の心を突き刺すように話す。言葉の意味は分からなくとも、静かで威圧的な声の表情は伝わる。

インターステラー』で、5次元空間に閉じ込められたマシュー・マコノヒーが、必死に考えを巡らせろと己に言い聞かせる「Think Think Think!」

スカーフェイス』でアル・パチーノが鬼気迫る表情で叫ぶ「Say hello to my little friend!」は、言葉の意味など分からなくともセリフ全体が狂気じみた死相を帯びている。

アラビアのロレンス』でピーターオトゥールが、自分に問いかけるかのごとく発した「Who are you?」の悲痛さは、観る人すべての心に無限のカタルシスをもたらす。

 

演じるキャラクターをサブテキストのレベルで理解した役者たちだからこそ、これらの表現は可能なのだ。たった数ヶ月~1年の撮影のために、生活の全てを捧げて役を演じる彼らの渾身の表現を余すことなく味わいたいと私は思う。

 

吹き替えだから成立するキャラクター

先の例の逆パターンもある。つまり、吹き替えの声優さんによる演技なくしてはキャラクターが成立しない場合だ。

 

例えば、『刑事コロンボ』でコロンボが安物の葉巻をくわえながら言う「うちのかみさんがね……」という決まり文句は、石田太郎氏・小池朝雄氏による吹き替えだからこそコクが出る。ピーター・フォークは名優だ、異論は認めない。だが、悲しいかな字幕で見た時の『刑事コロンボ』は、コロンボの持つ人間的な面白さが半減する。彼の人懐っこく、人情味溢れる人柄は、吹き替えによって獲得される。だから、観客はコロンボに共感して犯人との対決シーンでは、彼の勝利を心から願うのだ。

 

『コマンドー』の名セリフ「こいよベネット」は、吹き替え無くしては生まれなかった。今ではネットスラングと化したこのセリフも、字幕で観たとたんに何とも味気ない決めゼリフに成り下がる。

 

山田康雄氏によって吹き替えを施されたクリント・イーストウッドは、もはや山田版イーストウッドというオリジナルのキャラクターを獲得している。イーストウッドは何をしても様になる。薄汚いダイニングで不味そうなコーヒーをすすっていても、ホットドッグを頬張りながら話していても、歩いているだけでも、何をしてもカッコいい。そこへ山田氏の吹き替えが入ると、イーストウッドの伊達さに奥行きが加わる。吹き替えによって、見た目はイーストウッドそのままに、ベクトルの変化したカッコよさを持つ山田版イーストウッドへと変化するのだ。

 

『ダーティハリー』の名シーン、「Go ahead. Make my day」は字幕で見ないと味わえない。だが、吹き替えで見なければ山田版ハリー・キャラハンと犯人との間を支配する、ハードボイルドな駆け引きは味わえない

 

なっち語の魅力

洋画を字幕で見ると、ボーナス得点的に「なっち語」という楽しみがある。

知らない? こいつはコトだ! 紹介せにゃ。

戸田奈津子とは、日本の字幕翻訳者。翻案家。愛称はなっち。
トム・クルーズなどの有名俳優が来日した際、隣に居る眼鏡天パのおばちゃんと言えば知っている方も多いかもだ。

 

戸田奈津子とは (トダナツコとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

「ジェイクは奴にそれを教えたと?」
「なんてこった! 早く片付けちまわねぇとコトだぜ」
「あいつの分のコーヒーも買ってやらにゃ」
「ややや! けったいな!」

 

なっち語には独特のリズムがある。映画字幕という特殊な制約が、なっち語と呼ばれる文体を生み出した。英語と日本語の間に横たわる言葉の微妙なニュアンスの違い。文化や習慣によるコミュニケーションの違い。これらの違いを、なっち語は自然に伝えることができる。

(時にはトンデモ誤訳をぶちかまして映画ファンの失笑を買うのだが…)

 

初めはクセのある文体に違和感を感じるかもしれないが、慣れればスルメのように味わい深いものになる。いやいや、そんな言葉は英語じゃ絶対に言わんでしょ、というようなセリフでもなっち語の魔法にかかればキャラクターの個性になる。

 

表示される数秒の間に、ストーリーを理解するために必要な情報を視聴者へ届ける。これは容易なことではない。ただ脚本を翻訳するだけなら、偉大な翻訳者の方々だけで十分事足りるはずだ。それでも、字幕翻訳家という専門職があるのは、映画という形式に最も適した形で翻訳する必要があるからだ。漢字とひらがなのバランス、文字数制限、字幕にする情報の取捨選択。これらを全てやってのけるのが、戸田奈津子という映画字幕界のセイント・ゴッドマザーなのだ。

 

私は劇場に映画を観に行って、なっち語が出てくると嬉しくなる。相変わらず個性的だなと思いながらも、そのセリフを話すキャラクターに愛着が湧いてくる。これも字幕で映画を見るささやかな楽しみの1つだ。

だが、最も重要なのは字幕か、吹き替えか否かに関わらず映画そのものを思う存分に楽しむことだ。映画はいつの時代も人々にとって最高の娯楽なのだから。