Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

なぜ映画を見るのか? 見るべきなのか?

映画を見る意味とメリット

 

 
先日、何気なくRSSリーダーを見ていたら、はてなブックマークのホッテントリに目が止まった。


この増田を見る数日前にも同じような文脈の記事を読んだ。

 

前者は、「どうして映画を見なければいけないのか?  映画なんてつまらないのに」という趣旨。後者は、「映画なんて時間の無駄だから見るをやめろ、と上司に意味不明な叱責を受けた」という話。

 

「私の体の70%は映画でできている」というのは小島秀夫監督の受け売りだが、映画を愛する1人の映画ファンとして、この2つの記事をさらりと見過ごすことはできなかった。

 

どうして映画を見るのか————映画ファンにとってはライフワークだからとしか言えないのだが、それだと映画ファン以外の人を度外視した答えになってしまう。「どうして」という問いは、やや哲学的なきらいがある。そこで、映画を見るメリットを列挙して、この問いへの答えを模索してみようと思う。

 

映画は人生のシミュレーション

 

映画は人生の暗喩だ。産まれてこのかた、様々な映像作品に囲まれて育った現代人は、わざわざ誰かに教えてもらうまでもなくこの真意に気がついている。クリスマスになれば『ホーム・アローン』が見たくなるし、失恋したときには『ビフォア・サンライズ』が見たくなる。落ち込んだ時に見る『007 スカイフォール』はレッドブルよりも強力な滋養作用を持っている。

 

映画を見るとき、観客はそこで起こる事件やドラマ、葛藤と苦悩を通して他人の人生を疑似体験する。これは小説にも当てはまる。映画や小説に触れれば、ほんの数時間だけ他人の人生を歩むことができる。つまり、映画とは人生の疑似体験であり、それはすなわち現実世界のシミュレーションに他ならない。

 

幾多の困難を乗り越えて、ゴールへとひた走る主人公の姿は私たちに現実世界での立ち向かい方を教えてくれる。といっても、ジェームズ・ボンドのように、逗留先のホテルでワルサーをぶっ放す機会が現実に訪れる人はいないだろう。いや、むしろ訪れたら困る。現実世界で私たちが直面するのは、アクションシーンでのフィジカルな危機ではなく、会社やプライベートの悩みといった精神的な危機だ。

 

休み返上で働いたにも関わらず、結果が不振で怒られる。3ヶ月前には2人で旅行に行っていた彼氏との関係が、些細なことからぎくしゃくし始める。仕事でもプライベートでも、両方ともトラブル続きで満身創痍……もう無理。そんな時こそ映画の出番だ。映画の中の主人公も、ディテールは違えども私たちと同じような危機に陥る。

 

数年前、風のように姿を消した最愛の人が再び目の前に現れて助けを乞うてくる。しかも、恋人を連れて————カサブランカ

 

世間から疎まれ、恋人とは目の前で死別し、身体は傷だらけ痣だらけ。失意に沈む中、最強の敵が街を蹂躙する————ダークナイト・ライジング

 

仕事で大失態を犯し、莫大な借金を抱えて自暴自棄になる男。酒に溺れ、自分なんて生きている価値のない存在だと、激しい自己嫌悪が胸を掻き立てる————素晴らしき哉、人生!

 

映画の中で彼らが直面する危機は、状況こそ違うけれど本質的な部分で私たちと同じだ。逃げ出したくなるような危機的な状況で、様々な経験をして成長する。そして、最後には強敵を倒し、物語はハッピーエンドを迎える。困難を乗り越える過程は、現実世界で似たような問題に立ち向かう手練手管を教えてくれる。少なくとも、立ち向かう気概や勇気を与えてくれる。

 

映画の中で現実世界に役立ちそうなものは他にもある。たとえば、会話シーンでの間のとり方や、話し方。『ウォール街』のゴードン・ゲッコーを見れば、実践的な交渉のテクニックだって学べる————実際に使うには洗練されすぎているけれど。

 

映画の中で登場人物が着ている服だって、気に入ったら真似すればいい。グザヴィエ・ドラン監督のファッショナブルなたたずまいは、チェック柄とジーンズが定番だった20世紀の映画監督像を覆した。かくいう私も、イギリスBBCのドラマ『ピーキー・ブラインダーズ』に影響を受けて、ヘアースタイルもキャスケット帽も真似している。

 

想像力を涵養する


社会人は時間がない。1日8時間労働なんて、実践できているのは一握りの大企業だけで、大半の社会人は1日のほぼすべてを仕事に捧げている。自分の時間なんて、通勤時間と帰宅してからの数時間が関の山だ。そんな貴重な時間を映画に費やすのは、ほんとうに時間の無駄なんだろうか。

 

いや、むしろ社会人になったからこそ映画を見るべきだと私は思う。社会人になれば人生の酸いも甘いも知り、経験の幅が広がる。その広がった視点で映画を見れば、スクリーンの中で繰り広げられるストーリーから新たな知見が得られるに違いない。あの時主人公はこうしたけれど、もし自分だったら……と想像してみる。あのシーンで、なぜジャック・ニコルソンはフェイ・ダナウェイを追い詰めたのだろう……とキャラクターの立場になって想像してみる。

 

こうやって、様々な視点に立って考えてみる。これは「相手の立場に立って考える」という小学校から言われ続けてきた道徳律と同じだ。だが、分かっていても実践することの難しさは、多くの人が経験済みだと思う。映画を見ることで、こういった想像力を養うことができるのではないだろうか。社会人にこそこの種の想像力は必要だ。ともすれば、やはり社会人こそ映画を見るべきなのだ。

 

映画のカタルシス

 

映画を見続けていると、時たま心揺さぶられる作品に出会うことがある。月並みな表現だと「感動した」と言えるのだろうけれど、この感動を私はカタルシスと呼んでいる。

 

なんだか評論家っぽい響きのある言葉だから最初は敬遠していたのだけれど、心を揺さぶられる瞬間の感情は実に様々だし、それらをすべてカバーできる言葉が「カタルシス」しかなかったのだから仕方ない。

 

映画のラストシーン近くで、魂が震えるかのような衝撃を受けた時、その時の感情は興奮だったり、哀愁であったり、悲哀であったりと色とりどりだ。こういった瞬間の感覚を言い表すなら、心が洗われると言えるかもしれない。『新世紀エヴァンゲリオン』でミサトさんが「風呂は心の洗濯よ」とか何とか言っていたが、映画におけるカタルシスもまさにこれなのだ。心が洗われるかのような、すーっとする感覚————心の浄化作用と言えるこの感覚こそ、私がカタルシスと呼んでいるものだ。

 

後から思い返してみると、カタルシスを感じた時には思いっきり泣いた後のような得体の知れない開放感がある。この開放感を再び味わうために、人は映画を見るのではないだろうか。

 

最近は、医学的エビデンスが得られましたという記事が多すぎて、猜疑的にならざるを得ないんだけれど、こんな研究結果もあるらしい。

 

映画が感覚を研ぎ澄ます

 

映画というメディアが産まれて約1世紀。この100年間に星の数ほどの映画がつくられてきた。中には「時間返してよ」と苦言を呈したくなるようなC級映画もあるのだけれど、大半の映画は極上の時間を提供してくれる。冒頭で触れた記事には「映画なんてつまらない」という主張があった。たしかに、「私のほうが面白い映画を撮れるんじゃないか」と傲慢な考えが頭をもたげるような、超C級映画も存在する。だが、そういった「つまらない映画」も考え方次第では有意義な作品に昇華できる。

 

つまらないと感じた映画があったら、なぜ面白くなかったのかを考えてみる。べつに深く分析する必要はないと思う。ただ漠然と考えを巡らせるだけでも十分だ。そうやって、自分の中でC級映画のストックが出来上がってくると、段々と作品の良し悪しを見極める審美眼が育ってくる。実際に映画館へ行く前に、予告編やスタッフ一覧を見ただけで何となく作品の全貌が想像できるようになる。審美眼が備わると、より効率的に良作と出会うことができるし、積極的に映画を見ようと思うようになる。

 

そして、何よりも自分の中の感覚が研ぎ澄まされていく。映画が始まって30分もすれば、映画のおおよそのオチは想像できるようになるし、名作映画がなぜ名作と言われるのかが分かってくる。こうやって培われた鋭敏な感覚は、映画以外でも発揮される。知り合いの中に、何となくセンスの無い人が数人くらいはいると思う。的は外れてないんだけれど、何だかなぁ……って感じの人。澄み渡った感覚があれば、こういった微妙なセンスの違いにも敏感になれる。

 

とにかく、あまり深く考え込まずに肩の力を抜いて映画を見てみよう。触れた作品の数だけ新たな発見があるはずだから。

 

映画は人生を充実させる

 

なぜ、映画を見るのだろうか。ここまで映画のメリットを列挙して、その答えを模索してきた。正解のない禅問答のようなこの問いかけに強いて答えを出すならば、映画は人生を充実させるから、となる。

 

人生はいつだってハードモードだ。学生時代というイージーモードが過ぎれば、ノーマルモードをすっ飛ばして突然ハードモードに突入する。現実世界は見たくないものや、辛いことで溢れかえっている。SNSにはそんな人々の心の叫びが飛び交っている。そういった人生の辛苦を忘れるために、小説や映画のような想像の世界がある。そこでは観客が主人公とともに興奮したり、悲しんだり、笑ったりできる。スクリーンに映し出された世界で、ほんの少しの間だけ辛い現実を忘れることができる

 

現実逃避だと謗る人もいるかもしれない。だけど、人類がこの世に生を受けてこのかた、想像の世界は世界中の人々を魅了してきたことを忘れてはいけない。聖書は言わずもがな、北欧神話にいたっては現代でもフィクションのモチーフとして利用されているし、貴族の情事を精緻に描いた『源氏物語』は日本初のベストセラー小説になった。いつの時代も、人々はストーリーを、想像の世界を求め続けた。辛い現実をつかの間忘れるために、フィクションが必要とされてきたのだ。

 

想像の世界で夢見心地を味わい、スクリーンが消え、劇場内が明るくなった時に「また、明日から頑張るか」と思えればそれで十分なのだ。これこそ娯楽の作用であり、その結果人生が豊かになる。

 

Don't think! Feel

 

なにも難しく考える必要はない。とりあえず映画を見さえすればいい。かのブルース・リー大先生もおっしゃっているではないか。

 

Don't think! Feel.

 

『燃えよドラゴン』 ブルース・リー

 

すべての芸術がそうであるように、映画も感性で見ればいいのだ。怖いシーンでは全力で怖がって、爆発と銃撃戦のアクションシーンでは心の中で拍手喝采し、あだっぽいベッドシーンでは悶々としていれば、それで十分だ。面白い、つまらない、あの俳優さんカッコいい————自分の感覚に身を委ねて、感じたことにじっと耳を澄ませればいい。もし、つまらなかったのなら、なぜそうなのかを考えてみる。作品の出来に不平不満があるのなら、それをSNSで発信し続ければいい。そうすれば批評家になれる。もしくは、自らカメラを回して自分の納得いく作品を撮ればいい。もしかすると、どこかの映画祭に入賞するかもしれない。

 

タルコフスキーの映画のように、哲学問答を投げかける作品もあるが、大半の映画は肩ひじ張らずにソファにどっと腰掛かけて愉しめばそれで十分なのだ。映画を見て影響を受ける。それも大いに結構。バットマンになりたいと思えばジムに入会して筋トレを始めてもいい。エマ・ワトソンが可愛いと思ったら、同じ髪型にしてみてもいいじゃないか。

 

少なからず、映画はあなたの人生に影響を与える。そんな影響が積み重なって人格ができあがる。

 

映画も小説も音楽も、すべてのコンテンツは消費材だ。料理を食するのと同じように、コンテンツも鑑賞して消費される。過食は身体を壊すし、拒食は身体を衰えさせる。コンテンツも同じで、適切な消費が必要なのだ。あるいは、SNSやブログで自分の考えをアウトプットしてみるのも一手だ。コンテンツを過剰に摂取した分、アウトプットしてしまえば、食べ過ぎたカロリーを運動で消費するのと同じ効果が得られるだろう。

 

ゲームやSNSが台頭し、LCCの出現で旅行はよりリーズナブルになった。毎年、新たな小説が出版されるし、新星のバンドが全国ライブで凱旋をあげる。限られた余暇の時間に対して、娯楽の選択肢はあまりにも多いネットフリックスがゲーム業界をライバル視しているのも頷ける。そんな中で、映画という余暇の選択をする人が1人でも増えれば、映画ファンとして嬉しい限りだ。

 

ドラマとは、退屈な部分がカットされた人生である


アルフレッド・ヒッチコック