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The Indifference Engine | 伊藤計劃 補完計画

インディファレンス・エンジン 伊藤計劃

 

Spoiler Warning——ネタバレを含みます

 

女王陛下の所有物

 

ムサビ出身の伊藤計劃が、自らの手でイラストも手がけている。007をモチーフに、『ハーモニー』でも扱った「意識」の問題を描き出す。世界観とプロットは、本書に収録されている『From the nothing with love』の原型とも言えるかもしれない。ジェームズという人格(ソフトウェア)を肉体(デバイス)にインストールするという設定が、「意識」の在り処を問いかける。

 

Indifference Engine

 

本書のタイトルにもなっている短編。ホア族とゼマ族が争う様子は、ルワンダ大虐殺のツチ族とフツ族を連想させる。ゼマ族の少年の視点で語られる戦争は、リアルな血生臭さが漂う。稚さが残る言葉遣いの奥底には、成熟した狂気が深く根を張っている。少年が憤慨して叫ぶ「じょおおおおおだんじゃない」は、そんな狂気が生み出した魂の慟哭だった。冒頭、主人公の少年は同じ部隊の兵士ンドゥンガの処刑を命じられる。そして銃口を彼の頭に向けた刹那、停戦の報が届く。

 

戦争が終わる————産まれてこのかた、ホア族を憎むことしか知らなかった男の子にとって、それは生きがいを消失した瞬間だった。ホア族を殲滅し、戦争が終わった後のことなど考えたことがなかったのだ。少年は、産まれてからずっと戦争の中で生きてきた。ある日突然、生きる目的を奪われ、あまつさえ、ついこの前まで憎しみの対象だったホア族と仲良くするよう強要される始末。消えることのない憎しみをくすぶらせたまま、大人の勝手な理屈に振り回される。背負うべき責任も、その資格も持ち合わせていない少年は、大人たちの命令に従うことを強いられる。

 

ぼくはとてもいらいらしていた。戦場にいるとき噛んでいたスティックも、マリファナもなかった。ネタ切れのときは弾から火薬(ガンパウダー)を抜いて吸っていたけれど、銃と弾を取り上げられたぼくらにはそれすらない。

P.20

 

大人たちの身勝手なルールに真っ向から対峙する少年は、ついにクラスメートのホア族の少年を鉛筆で刺す。ホア族は痛みを感じない。痛いような演技をしているだけだ。こんなにも狂気じみたことを、こともなげに言ってのける少年の屈託のなさが恐ろしい。問題を起こした少年はCMIによる施術を受ける。

 

CMI:コンバット・メディカル・インストゥルメンツ。戦闘医療工業。

 

CMIの施術は脳に作用して、あるものの見方を変えることができる。”心に注射する”と表現されたそれは『虐殺器官』に登場した感情適合調整のことだろう。戦争に関わった人々を元の生活に戻すための処置として、少年はこの施術を受けさせられる。その名も————公平化機関:Indifference Engine

 

ぼくがこの世界になにか良いことを期待するには、あまりにも多くのものを見すぎてしまったし、やりすぎてしまった。

P.50

 

施術後に仲良くなった友人のエツグァイは、かつての敵 ホア族だった。だが、「Indifference Engine」を施された少年は、ホアとゼマの見分けがつかない。停戦後、厚生施設に入り損なった人々は街中で残飯漁りや物乞いをしている。戦争が終わったからといって、すぐに平和の女神が地上を浄化してくれるわけではないのだ。戦争は始めてしまったが最後、停戦を迎えようとも負の連鎖が留め具を外して周り続ける。


そんな中、少年は元上官 エントレと出会う。戦争が終わり、ホア族を殲滅するという生きがいを無くした大人たちには、商売という現実的な生きがいが残されている。ビジネスのためなら、折り合いをつける柔軟さを発揮できるというわけだ。たとえ、ついこの間まで憎んでいた相手であっても、手に職を得るためならば多少の理不尽さにも目をつぶることができる。だが、社会という大きな枠組みを意識したことすらない子どもたちに、それを受け入れろというのはどだい無理な話だ。

 

歴史のために戦争が起こるのではない。戦争を起こすために歴史がつくられる。

P.65

 

『虐殺器官』のキャラクター、ウィリアムズが端役で登場している。『虐殺器官』で自身も頬張っていた軍用のプロテイン・レーション「ファーストストライクス」を少年に恵んでやる。

 

ぼくらはこの白人の国の大統領が決めたことに従えと言われているだけだ。憎しみは忘れろ。憎しみは忘れろ。自分の家族を殺した連中の罪を赦せ。そして実際ホアの奴らは誰ひとり裁判にかけられることもなく、のうのうとヘヴンの市場を歩いている。

P.73

 

『虐殺器官』で思索的なバーの店主 リチャードが言っていた「啓蒙は押し付けがましい一方的なものだ」という言葉が思い出される。そして、今やすべての戦争は、当事者を救うという錦の御旗の下に、善意の押し付けを行っている。

 

戦争はまだ終わっていないんだと証明するべく、少年は再びAKを手に取る。やった、やられた、仕返した。これが戦争のルーツだ。お互いが自己の無謬性を信じ、敵を憎むことに執念する。まさに地獄絵図ではないか。

 

Heavenscape

 

小島秀夫作品『スナッチャー』から着想を得たという『虐殺器官』のプロトタイプ的な作品。『虐殺器官』との最大の違いは、語りの視点が3人称になっている点。主人公がうなされる悪夢「死者の国」や、生体認証によって管理された「認証社会」という世界観は同じだ。他にも、舞台がモスクワに移っていたり、冒頭のアクションシーンが無くなってより説明的になっていたり、シュルファタンと名乗るパーソナルAIが登場したりと細かい点が『虐殺器官』と異なっている。

 

CIAはザンバジーの虐殺を引き起こした張本人、ビクトル・ドレイセンを殺害した。だが、その正体はスナッチャーだったという事実が明らかになるところで作品は終わっている。『虐殺器官』におけるヴィラン ジョン・ポールが、本作の段階ではギリアン・シードという『スナッチャー』の主人公の名前になっている。『虐殺器官』で主人公がみせたセンチメンタルな感傷は微塵もなく、ハードボイルドな作風に仕上がった短編だ。

 

 

フォックスの埋葬

 

現在から始まって過去に遡り、再び現在に帰ってくるというストーリー構造。ラストシーンで、時間軸が現在に戻ったとき冒頭で見た景色は違って見える。反政府活動家が潜伏している寒村を皆殺しにした「フェニックス作戦」  この作戦がきっかけでFOXから脱隊したイェーガーを、主人公スネークが探し出すという物語。

 

低木やツタが生い茂るジャングルを進む描写は、『虐殺器官』にも受け継がれている。密生林を進行する際は、最も困難な道を通らなければ待ち伏せしている敵にヘッドショットを叩き込まれる。かつてのFOX隊員イェーガーは、ラオスの現地人を訓練してホーチミン・ルートの攻撃に投入する。山奥に建国された小国家の王を探すスネークは、まるで『地獄の黙示録』のウィラード大尉だ。

 

その石仏の表面のところどころ、鼻といわず頬といわず瞳といわず、あらゆる表面にむした苔は、いったいどのくらいの時間をかけて育ってきたものだろうか。その冠の頂からは一本の樹木がよじれながら天へ伸び上がり、その腹から蛸のように分かれ出た根は、まるで女性の長い髪のように石仏の頭から地面を目指して垂れ下がる。

P.139

 

『地獄の黙示録』と、それをオマージュした『機動警察パトレイバー2』のオープニングを彷彿とさせる石仏の描写。ようやく姿を現したイェーガーと対峙したシーンでは、ぴんと張り詰めた緊張感が場を支配する。そして、本作のクライマックスであるイェーガーとスネークの一騎打ちが始まる。スローモーションのような精緻な戦闘描写は読み応え抜群だ

 

イェーガーを仕留めたスネークはやり場のない喪失感にさいなまれる。そして、あることに気がつく————自分は国のために戦っているのではない。心にぽっかりと空いた穴を埋めるべく、自分のために戦っているのだと。国や大義名分は、それをしまっておくための隠れ蓑にすぎなかった。そのことにスネークは気がついたのだ。

 

セカイ、蛮族、ぼく。

 

同人誌への書き下ろし。たった7ページの中に、混沌とした何かが、狂気の色に染め上がった何かがどっしりと横たわっている。「蛮族」という生まれながらの身分を差別するクラスの雰囲気は、世界中でいまだに根深く残る人種差別の縮図みたいだ……なんて言えるわけがない

 

社会的なテーマとか、グローバルな倫理観とか、そんな形式的な議論の余地があるストーリーではないのだ。もっと原始的で根源的な何か。人間の奥底に組み込まれたカオティックな狂気。この物語が語っているのは、ただひたすらに、生真面目なほどにそれだけなのだ。理性の領域を欲望に食い尽くされてしまった人間。そんな蛮族の視点で語られる日常風景は、容易には理解できないシュールレアリズムのような代物だ。

 

弁舌さわやかな評論家なら、この短いストーリーから色々と語ることができるのかもしれない。私は、ただ感じただけだった。不気味な絵画をみた時のような、胃袋がぎゅっと締め付けられるようなグロテスクさを。名状しがたい狂気の片鱗を。

 

A.T.D:Automatic Death EPISODE:0 NO DISTANCE BUT INTERFACE

 

『虐殺器官』の表紙を手がけた新間大悟がイラストを手がけている。米軍統合情報網とデータリンクした電脳を持つ男、ミスター・インターフェイスの物語。世界観は『攻殻機動隊』や『マトリックス』のようなサイバーパンク感が満載だ。政府中枢にまで食い込んだ犯罪者ホロウマンは、『虐殺器官』のジョン・ポールを彷彿とさせる。暗殺対象の人物像(プロファイル)を読み込む描写は、『虐殺器官』へと引き継がれた。

 

タイトルにもある「インターフェイス」が本作のテーマだ。回想と現在が入り混じったストーリー展開は、さながら映画のクロスカッティングのようだ。ホロウマンの娘、フィオナは何らかの理由で病院に隔離されている。隔離された娘とそれを見守る母親————対するホロウマンはスカイプのようなビデオ通話(インターフェイス)で娘と他愛もない会話を楽しむ。

 

隔離するための敷居を挟んだ母との会話よりも、ビデオ通話によるホロウマンとの会話の方が、物理的に距離が近いはずだと彼は主張する。撞着的な彼の主張の裏には、娘への深い愛情がある。仕事の都合上、ワシントンを離れることができないホロウマンは、ビデオ通話で娘との会話を楽しんでいる。それが会話というよりも、一方的に通信手段の説明をしているだけだとしても。

 

いにしえの通信手段『セマホール』についての説明は、娘へ対するホロウマンなりの不器用なコミュニケーションだ。そして、ラストシーンで墓標というインターフェイスの前にひざまずくホロウマンは、後悔を胸に抱いたまま娘のもとへと旅立つ。

 

 

サイバーパンクの中に織り込まれた情感豊かなドラマ————SF的要素とドラマ性の絶妙なバランス、これこそ伊藤計劃が一流の作家たる所以だ。『虐殺器官』では凄惨な世界をセンチメンタルな視点で見つめ、『ハーモニー』では飽和状態に達したユートピアをシニカルな視点で嘲笑ってみせた。たった数ページの短編の中に、これだけのドラマ性を組み込むことができるのは伊藤計劃をおいて他にいない。

 

From the nothing with love.

『007』シリーズへ、ありったけの愛とオマージュを捧げた傑作短編。名作『ロシアより愛を込めて(原題:From Russia, with Love.)』を模したタイトルから、伊藤計劃の映画愛が伝わってくる。

 

例えるなら私は書物だ。いまこうして生起しつつあるテクストだ。

 

メタ的な響きのある一文が目を引く。そして、次のようなことわりが挿入される。わたしはアルゴリズムであり、ソフトウェアなので文章に皮肉や感傷があったとしても内面はないと。

 

言うなれば私は写本だ。写本の写本の写本の写本だ。少なくともその大半は。


P.199

 

これらの「告白」は、衝撃的な事実が明らかになる後半でようやく実像を結ぶ。本作は『007』シリーズへのオマージュが溢れている。「わたし」の転写施設があるのはボンド映画が撮影されたパインウッド・スタジオだし、「わたし」が乗る車はアストン・マーチンだ。「わたし」が次なる「わたし」へ向けて書いた日記には「ワールド・ワズ・ノット・イナフ」と書かれている————ピアース・ブロスナン主演のシリーズ19作目のタイトル。こういったディテールへの偏愛っぷりが伊藤計劃らしい。

 

テーラーメイドのシャツとスーツ————なぜかサヴィル・ロウではなくブリオーニだった

P.202

 

『007』シリーズは半世紀以上にわたって、様々な俳優がジェームズ・ボンドを演じてきた。役者は変わっても、ジェームズ・ボンドという敏腕スパイの能力は引き継がれる。これをモチーフにしたのが、本作で描かれる「わたし」だ。女王陛下の所有物(プロパティ)として、スパイの経験値を躯体にインストールすることで存続する「わたし」という存在。肉体的に死を迎えても、そのデータをインストールすることで、次なる「わたし」が任務を継続する。

 

次なる「わたし」を引き継ぐ候補となる人物が、次々と殺害されていく。「わたし」の候補となる人物が孤児であるという設定は、ジェームズ・ボンドが孤児であることに由来しているのだろうか。「委員会」の構成員グレヴィル・アクロイドの死を皮切りにして、「わたし」は事件を解明していく。

 

純粋な脳それ自体を生み出す方法が確立されるまでは、私は他人の肉体で生き延びる略奪者であり続けるだろう。他人の脳に書かれる写本。自分なるものを喪失してもなお、英国を守ると志願した者たちの肉体がパピルス代わりの。


P.218

 

音声データをもとに、事件を解明していくうちに「わたし」は「大深度施設」へとたどり着く。「わたし」の経験を抽出して保存するストレージ施設。そこで働くキャロライン・シェパード女史から明かされる事実が、冒頭の「わたし」による告白と繋がる。記憶喪失だと思われていた「わたし」のシステムエラーは、意識の消失だったのだ。

 

スパイとしての経験を蓄積すればするほど、行動はデータ化されていく。その結果、意識は不要なものに成り下がった。キャロライン女史は言う————「あなた」は「あなた」であることを極めすぎてしまったの、と。意識は後付(あとづけ)で行動を追認しているに過ぎないのだと。

 

キャロライン女史は、アメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットの実験を引き合いに出して、その根拠を補強している。リベットの実験によると、私たちが指を動かすとき、意識が指を動かそうと思うよりも前に、脳はすでに指を動かせる準備に入っているという。

 

「自分」として純化されることで、不要になるのは「自分自身」に他ならない


P.239

 

行動の最適化を追い求めた結果、意識が不要になるというテーマは、『ハーモニー』へと引き継がれた。本作では、自身が意識を喪失した哲学的ゾンビであると「わたし」が悟ることに焦点が当てられる。意識を持たない存在であることを知った「わたし」の苦悩と葛藤を描いている。

 

 

哲学的ゾンビとは、「外見上は普通の人間とは全く異ならないが、意識(クオリア)を持っていない存在」として定義される。これは、あくまでも哲学上の議論で持ち出される1つの仮定であり、心の哲学を論じる際に用いられる仮想の存在だ。だが、そんな仮想の存在であっても小説の世界なら再現できる————この思考実験的なアイデアに基づいて執筆されたのが、本作なのだ。伊藤計劃は、こういった思考実験的・社会実験的なアイデアを好む

 

「もし、病気によって死ぬことのないユートピアが実現されたとしたら、社会はどう変化するのか」————ハーモニー。


「もし、生体認証によってプライバシーを監視される社会が訪れたとしたら、その世界で起こる争いはどう変化するのか」————虐殺器官


「もし、意識を持たない哲学的ゾンビが実現できたなら、当事者がそれを自覚したなら、何が起きるだろうか」————From the nothing with love.

 

伊藤計劃の描く未来像には、地に足の着いたアイデアと、それを受け入れる社会システムが組み込まれている。「もし1発のミサイルが東京に撃ち込まれたら、日本の国防体制はどう変化するだろうか」と問うた押井守監督に通じるイデオロギーがある。数歩下がったところから社会を見つめる伊藤計劃のまなざしは、読者の知的好奇心を掻き立てる。優れたエンターテイメント性に忍び込ませた社会的な視点こそ、伊藤計劃が非凡であることの証しなのだ

 

意識の喪失を自覚した「わたし」は、意識が完全に消えてしまう前に「次なるわたし」へ向けて日記を綴る。筆を進めながら過去へと思いを馳せるとき、アクロイド邸で感じたデジャヴを思い出す。哲学的ゾンビであることを知った今、「わたし」の予想は確信へと変わる————あれはデジャヴではなく、他ならぬ自分の記憶だったのだと。前半の導入部分でさり気なくちらつかせた伏線を、見事につなげて回収している。

 

本作で私が最も好きな部分は、友人の墓を訪れた「わたし」が老婆と出会う場面だ。愛について語る「わたし」の視点は、レイモンド・カーヴァーのように冷笑的だ。ときに差し込まれるエモーショナルな要素が、どこか陰のある世界観に彩りを添えている。

 

愛、とかつて呼ばれたもの、最初は確かに愛だったもの。それは年経るごとに変質し、かつての性的な情熱や孤独を癒やして欲しいという狂おしいまでの欲求を喪って、生活のリズムに、共に生きるためのアルゴリズムへと変化してゆく。

 

愛が最終的に行き着く先、愛の究極は、相手の痕跡を自身の生活に刻むこと。愛する者のパターンを、互いが自身の人生に繰り込むことなのだ。


P244

 

解説

 

ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングによる共作『ディファレンス・エンジン』の解説。その解説を、伊藤計劃と彼の盟友である円城塔が執筆しているというメタ構造。哲学的な含意に満ちた文章は目眩を感じさせる。あいにく、私はギブスン版の『ディファレンス・エンジン』を読んでいない。伊藤計劃が自身のオールタイム・ベストに挙げているようなので、時間をとって読んでみようと思う。

 

屍者の帝国

 

伊藤計劃の遺作となった『屍者の帝国』  伊藤計劃が急逝した後、彼の盟友 円城塔が3年の歳月をかけて執筆し、ようやく完成した。本書に収録されているのは、伊藤計劃がみずから筆をとった冒頭部分のみ。

 

ヴィクトリア朝を彷彿とさせるロンドンが舞台。シャーロック・ホームズやジェームズ・ボンドへのオマージュや、『タイムズ紙』『デイリー・テレグラフ紙』といった異国情緒をまとったディテールの数々が、何とも伊藤計劃らしい。

 

「屍者を蘇らせる技術」が確立されたという設定の上に成り立つ世界観。そこで問われるテーマはもちろん「魂とは何か」だ。本作で伊藤計劃は、現代からかけ離れた未来を描くSFにありがちなクリシェを、ヴィンテージ感あふれるロンドンに持ち込んだ。

 

リチャード・モーガンの描く未来は、技術的に進みすぎているがゆえに「魂」の価値を貶めている。精神をデータ化して肉体というデバイスにインストールすることが可能になったなら、寿命という軛は断たれ、「魂」はその存在意義を疑われる。ヴィクトリア朝という旧時代で、この設定を描くからこそ「魂」の存在意義へと光が当たるのだ。007よろしく諜報活動を行う謎の組織と接触するところで物語は途絶えている。この続きは、円城塔 氏へと引き継がれる。

 

伊藤計劃の魅力とは

 

私は伊藤計劃を敬愛している。心にすっと染み込んでくる流麗な文体、精緻な世界観、エンタメ性と作家性の均衡、そして抉るように切り込むテーマ性。すべてが完璧すぎるほどに完全なのだ。

 

昨年の末、伊藤計劃という作家を知った。あまりの衝撃に全身が震えた。時おり、人生に多大な影響を与える本や映画に出会うことがある。脳内OSをアップデートするかのような、自身の軸に据えた信念とか思想を上書きする作品たちに。伊藤計劃の作品と出会って、私の中で「何か」が上書きされた。それが何なのかは分からないけれど、作品を読む前と読んだ後ではたしかに「何か」が変わったのだ。

 

伊藤計劃は間違いなく21世紀を代表する作家だ。エンタメ小説は純粋文学ではないと、敬虔な本の虫(ブックウォーマー)は言うかもしれない。けれど、伊藤計劃の作品を文学といわずして、何を文学だと言えるだろうか。これこそ、21世紀の小説の姿だ

 

緻密なSF的要素の積み重ね。それが生み出す伊藤計劃ワールド。圧倒的な質感をもった、限りなく現実的な未来像。人間性から乖離しがちなSF空間へ、繊細な機微を織り込むことで読者を酔わせる。SF要素とドラマのバランスが絶妙なのだ。

 

伊藤計劃の描く未来の世界には、圧倒的なリサーチによって裏付けられたアカデミックな設定がある。『虐殺器官』では言葉について、『ハーモニー』では脳について、『屍者の帝国』では魂について。この常軌を逸したと言っても過言ではない、緻密にしてリアルすぎる設定だけでもオタク気質のSFファンはときめくのだけれど、それだけに甘んじないのが伊藤計劃だ。これらのディテールは作品世界をかたちづくるための歯車であって、物語をつむぐのは独特な視点を持った魅力的なキャラクターたちだ。

 

フィリップ・K・ディックは『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』で、アイデンティティーや魂、宗教についての哲学的な問いを読者に投げかけた。SFというエンターテイメントの中で、深遠なテーマを問い続けた。ディックと同じく伊藤計劃もまた、SFという娯楽性に哲学問答を滑り込ませる

 

傍目には単なる戦争かもしれないが、当事者たちにとってはそれが現実であり日常なのだ————Indifference Engine

 

感覚を抑制された殺人マシーン。命令に従ってターゲットを殺す。果たして、この殺意は本当に自分のものなのだろうか————虐殺器官

 

ユートピアの臨界点。思いやりと気づかいの押し付けあいがまかり通った理想郷。度を超えた幸福は、人々の意識を消失させるのではないか————ハーモニー