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ハーモニー | 伊藤計劃 補完計画 vol.3

伊藤計劃 ハーモニー

 

 

伊藤計劃の長編3作目にあたる本作『ハーモニー』は、SF界の名誉フィリップ・K・ディック賞 特別賞に輝いた。本作で伊藤計劃が描くのは、善意の押しつけあいがまかり通った世界————ユートピアだ。

 

そこへ処女作『虐殺器官』、短編『From the Nothing with Love』から続く意識の在り方というテーマが絡んでくる。3人の少女たちが紡ぎ出す「善意に窒息しそうな社会」は、手を伸ばせば届きそうな距離にある虚しくて儚い世界だ。

 

 

Spoiler Warning——ネタバレを含みます

 

善意の押し付けあいがまかり通った世界

 

深夜のテレビショッピングを見るたびに思うことがある。「人々はどれだけ健康を追い求めているのだろうか」と。それだけ健康を渇望して、もしそれが手に入ったとして一体どうするというのだろう。長寿を手に入れて、完璧な健康に到達すれば欲求は満たされるのだろうか。なんだか手段が目的になっているような気がしてくる。

 

さも健康という正解がありますと言わんばかりのテレビショッピングには、いつも違和感を覚える。鋳型に押し込められたような、正解を押し付けられたような、そんな煩わしさを感じる。

 

これが極限まで押し進められたらどうなるか————これこそ、本作『ハーモニー』の世界観である。

 

かつての嗜好品は医学の名の元に社会から追放された。百害あって一利なしと言われるタバコはもちろん、アルコール、カフェインさえも。健康と長寿を追い求め、人々を社会のリソースとして気遣う世界は過保護な親のようなお節介でもって主人公を締め付ける。御冷(みひえ)ミァハの言葉を借りるなら、

 

「どん底を知らずに生きていけるよう、すべてがお膳立てされている」P.15

 

そんな世界。頭痛や風邪といった小さな痛みすら、個人用医療薬精製システム(メディケア)によって駆逐された世界。「あなたはこの世界の貴重な財産である」というリソース意識を植え付けるこの社会は、政府ではなく”生府”と呼ばれている。

 

この息が詰まるほどの善意の押し付け合いに窒息しかけていた主人公:霧慧(きりえ)トァンは、1人のカリスマと出会う。そのカリスマとは、公園のベンチに腰掛けて、今や死のメディアとなった”本”を読む御冷ミァハである。孤独になりたいのなら、デッドメディアに頼るのが一番だというのは彼女の言だ。映画や絵画もいいけれど、孤独の持久力という点では本が一番頑丈だと、嬉々として語る彼女にはたしかにどこか人を惹き付ける魅力がある。紙の本が絶滅危惧種となったこの世界で、わざわざネット上からデータをダウンロードしてきて紙に印刷している変人でもある。

 

ミァハはこの世界を、プライベートの領域が侵食され何もかもを共有しようとするこの世界を、心底憎んでいる。そして、トァンに「自殺」しようと持ちかけるのだ。生府にとって大切な公共的リソースである自分たちの身体を葬り去ることで、世界に復讐してやろうというわけだ。

 

病気になること、生きること、考えること。自分自身のものでしかあり得なかった多くのものが、他者と共有化され、公共のリソースになる。自分の人生を生きたい。この身体も、この人生も私のものだから。

 

その方法とは、消化器官が栄養を無視する薬を飲んで、絶食に近いかたちで死を迎えようというもの。方法は何とも狂気じみているが、ミァハの主張は現代の私たちにはしごくマトモに聞こえる。

 

核弾頭が世界に落とされ、放射能で癌になる人が急増した大災禍(ザ・メイルストロム)————この暗黒の時代を経験した反動で世界は健康志向へと舵を切り始めた。この大災禍とは、おそらく『虐殺器官』のラストを示しているのだろう。クラヴィス・シェパードが虐殺の文法を使って世界中を混沌に貶める、あの衝撃的なラストだ。大災禍のトラウマを払拭できなかった、かつての政府のお偉方は程々をわきまえずに極端な医療福祉社会の構築を目指した。

 

財布が使いこなせれば貯金箱はいらないのに。程々じゃ不十分だって考える。だから自らに厳しい禁則を課し、それを守り続けなければ元の木阿弥になってしまうと怯えている。

 

近年、たびたび話題にのぼる「働き方改革」しかり、人々は程々を通り越して0か1かの二元論に陥りがちだ。退社時間になったら社屋の照明を強制的に落とすだの、無理やりにでも有給休暇を取れだのと、まさにお節介もいいところだ。労働時間を短縮して、生産性を上げてもっと効率的に仕事をしようという趣旨なのだろうけど、これとて極端というか、本来の趣旨を履き違えているような気がする。過労によって死に追いやられた人がメディアで取り沙汰されるたびに、世間はセンセーショナルに反応する。たしかに状況を変える必要はあるけれど、だからといって「プレミアム・フライデー」なる極論に飛びつくのは、財布を使いこなせていない証しだと思う。

 

『ハーモニー』の描く行き過ぎた理想郷(ユートピア)の姿は、現代とリンクしてリアルな質感を漂わせる。

 

意識(コンシャス)の消失=人類は動物であることを辞めた

 

少女から女性になったトァンは、WHOの一部局である「螺旋監察」に勤めている。それぞれの土地を統治する政府なり生府が、その住民に十分「健康的で人間的な」生活を保障しているかどうかを査察する、というのが一応のお題目。

 

だが、彼女の真意はそんな高尚なものではない。今や禁則事項となった喫煙をするために、わざわざ戦場くんだりまで出張っているというわけだ。お互いが慈しみ、支え合い、調和(ハーモニー)を奏でるのがオトナだと教えられてきたトァンは、それを受け入れるフリをして生きている。「DummyMe」を使って偽の体内情報を送信し続けることでシステムを騙している。

 

「一緒に死のう」と持ちかけるのミァハもクレイジーだが、その提案を受け入れたトァンもまたクレイジーだった。そして、彼女たちの友人:零下堂(れいかどう)キアンは、この世界はそんなに悪いもんじゃないと受け入れることを選んだ。共同体のセッションにはきちんと参加するし、ライフデザイナーの提案した生活を律儀にトレースする、そんな人物。

 

このキアンが突然ナイフを自らの首に突き刺すところから、本作のストーリーは動き始める。全世界で2796人が同時に自殺を試みたこの事件をきっかけにして、ある組織が浮上する。次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ————学術的な組織らしく、何とも長ったらしい名前のこの組織こそ、今回の事件の首魁だった。

 

生府の有力者、医療産業複合体のトップ、学者・科学者たちからなるこのグループは、各生府のWatchMeサーバーを通して人々の身体に不正アクセスをかけることができる。大災禍の再来を防ぐという目的で、WatchMeを通じて人々を監視下に置いていたのだ。この組織の一員であり、トァンの父であもる霧慧ヌァザは中脳の報酬系を医療分子で制御して、人間の選択や決断、思考や感情を制御できると考えた。

 

ヌァザの共同研究者、冴木ケイタによれば「意志とは会議のようなもの」だという。意志とは1つのまとまったものではなく、多くの欲求がわめいて侃々諤々の議論が繰り広げられている状態を指す。そして、その欲求は報酬系に従って主張する。

 

人間の価値判断は指数的な合理性ではなく、双曲的な非合理性である。マシュマロ実験の結果が示しているように、将来もらえる2万円よりも、今すぐに受け取れる1万円を選ぶ————これこそ、生存本能のなせる業なのだ。

 

この小さな短期的欲求と大きな長期的欲求の争いこそが「意志」と呼ばれるものの正体だ。

 

ともすれば、欲求に与えられる報酬系の諸要素を調整することで、人間の意志を制御できるのではないかと、ヌァザは考えた。そうして生まれたのが「ハーモニー・プログラム」だった。調和のとれた意志を人間の脳に設定する技術とシステム。報酬系が調和し、すべての選択に葛藤がなく、あらゆる行動が自明な状態。それはすなわち「意識の消失」を意味する。

 

全員の意見が一致していれば、そもそも会議を開く必要性が無くなるというわけだ。

 

「意識の消失」とは経済学や社会学の文脈で登場するような、極限的な合理性を追い求めた人間のことだ。「哲学的ゾンビ」と同様に、机上では存在するが実在はしない。見かけは人でありながら、人として最も大切な何かが欠けている状態、これがユートピアの極北だった。

 

ボタンひとつで世界中の人々の意識を消失させることのできる組織のトップ連中が、重い腰を上げざるを得ない状況を演出する————これこそが今回の事件の首謀者:御冷ミァハの動機だった。

 

私たちはどうしようもなく動物で継ぎ接ぎの機能としての理性や感情の寄せ集めにすぎない。この世界に人々がなじめずに死んでいくのなら、いっそ人間であることを辞めたほうが良い。

 

「いくつのモジュールが残存していれば意識があると言えるのか」と問うた『虐殺器官』、「行動の最適化を追い求めれば、やがて意識は不要になる」その様を描きあげた『From the Nothing with Love』

 

これまで伊藤計劃の作品に通底していた「意識の消失」というテーマが結んだ結晶、それが本作『ハーモニー』なのだ。

 

重厚なテーマをエンタメで包んだ傑作

 

理想郷が現実となったらどうなるか。もし、世界中の人々が意識を消失すればどういうことが起こるのか。文壇で取り上げるにはあまりにもアカデミックすぎる題材を、伊藤計劃は上質なエンターテイメントの皮で包み込んだ。

 

巻末のインタビューで伊藤計劃は、「理屈にそってキャラクターをつくり、そのキャラが喋るロジックを魅力的に見せるためにストーリーを考える」と述べている。そうだ、伊藤計劃ワールドはどこまでも理屈っぽくて、アカデミックなのだ。

 

哲学的なテーマと衒学的なセリフの応酬によって、独自の世界観を築き上げる押井守 監督と同じ香りがする。押井監督の場合は一切のエンタメ性を度外視しながらも、”映画的な面白さ”を感じさせるから天才的なのだけれど。

 

そして、同じ空気感を纏った伊藤計劃も、やはり押井守ファンだった*1思い返してみれば、インターポールの捜査官:ヴァシロフが登場するシーンは『劇場版 パトレイバー2』の荒川を彷彿とさせる、といえば穿ち過ぎか。仰々しく名刺を手渡す仕草から、「ここじゃ何なので車で話しませんか?」という流れまで。そして、車中でダイアローグが展開しているさなか、事件が急展開を見せるというディテール。

 

『パト2』では三沢基地から飛び立ったF16を迎撃するスクランブル事件、『ハーモニー』ではニュースキャスターが「1人1殺」を宣言した後に自ら命を断つ展開————偶然にしてはあまりにも似通っているように感じる。この部分を読んだときに『パト2』の高速道路の場面と本作がオーバーラップした。

 

時おり挿入される過去のフラッシュバック。ミァハと過ごしたかつての日々と、そこで感じたことが現在とリンクする。今や死滅した「名刺」について、ミァハが講釈を垂れる場面はクライマックスで彼女とコンタクトする時に結びつく。

 

回想シーンから始まって日本に帰国して、級友のトアンが自害するまでの展開の鮮やかさ。この事件を発端にして展開していくミステリー要素。そして、父との再開と死別————「意識の消失」やら「ユートピアの臨界点」といったロジカルなテーマを扱いながらも、きちんとエンターテイメントしているこの絶妙なバランス感覚こそ伊藤計劃の真髄だ。

 

たとえば、冴木教授と「意志」についての議論を交わした後、HeadPhoneで通話する時にふと自殺したキアンの様子を思い出す。彼女も自殺する直前、HeadPhoneで話している時に特有のうつむき加減になっていたではないかと。そして、キアンが死の直前に何者かと通話していたことが明らかになり、その相手が亡くなったと思われていた御冷ミァハだったという新事実がミァハと読者を驚嘆させる。

 

なんと鮮やかな展開だろう。この静と動の対比というか、緊張と緩和のバランスこそ優れたエンターテイナーの証しである。

 

悪があるから善が光る

 

タバコ、アルコール、カフェイン————いずれも身体を痛めつけると分かっていながらも、人はこれらを好んで摂取する。中には依存する人すらいる。

 

血しぶきをあげる残酷な殺し合い、ヒーローがヴィランをぶちのめす————かつてはコロッセオ、現代ではアクション映画やゲーム。学校の先生や教会の牧師に咎められそうな、これらの争いを人々は好む。映画が生を受けて約1世紀の間、娯楽とは「暴力とセックス」だった。

 

道義的に悖るという理由だけで、これらの「悪」を排除すれば世界は「善」で覆い尽くされるだろう。それがどんな光景になるかは『ハーモニー』の中で十分に知ることができる。

 

どうして人々はこういった「悪」を好んで摂取するのだろうか。喫煙者の多くは苛立った時に一服するだろうし、ハードリカーの大半は「飲まなきゃやってられない」と言ってバーの扉を開けるだろう。社会の歯車になって仕事に精を出すのが「善」の一面だとすれば、嗜好品によって自分の身体を痛めつける行為は「悪」となるのだろうか。おそらく、多くの人がタバコや酒にかぎらず何らかの方法で心に溜まった澱を吐き出している。その方法が喫煙の人もいるだろうし、中にはゲームでひと暴れする人もいるだろう。もしくは、読書だったり、映画鑑賞だったりするかもしれない。

 

方法は何であれ、こうやって人々は自分の中のバランスを取り戻している。そのはけ口を奪ってしまっては、人は早晩破綻を来す。『葉隠入門』で三島由紀夫が言ったように、「見逃しがあるから規律が活きる」のである。お節介をやいて何でもかんでも、頭ごなしに排斥すれば問題が解決するほど現実はヤワじゃない。「悪」があるからこそ「善」の部分が光るのだ。

 

暴力的なゲームの販売規制、受動喫煙に関する法令、働き方改革————これらの「度を過ぎた慈しみ」は『ハーモニー』の世界とリンクしている。

 

 

*1:『伊藤計劃記録II』