Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

真実の行方: 正義が必ず勝つとは限らない

映画 真実の行方

 

あらすじ

シカゴのカトリック境界で大司教が殺害され、司教のもとで働く青年アーロンが容疑者として逮捕された。世間の注目を集めることに余念がないイケメン弁護士マーティン(リチャード・ギア)は、名声を求めてアーロンの弁護を引き受ける。アーロンの純真無垢な言動から、事件現場には第三者がいたと推測するマーティンは、無実を主張し彼を弁護しようと試みるが…… 『アラバマ物語』『推定無罪』と並ぶ法廷サスペンスの名作。

 

 

この作品の邦題は『真実の行方』だが、原題は『Primal Fear』である。メタラーの私としては、どうしてもドイツ出身の同名のヘヴィメタルバンドが頭をよぎる。

 

まぁ、それはさておき、本作は1996年に公開された法廷サスペンス映画である。20世紀の終わり近くに公開された映画には、優れたエンタメ作品が多い。「やっぱり映画は20世紀の方が面白い」とは神山健治監督の『東のエデン』のセリフだが、これには私も手放しで同意する。

 

『L.A.コンフィデンシャル』『アポロ13』『アルマゲドン』『ゴースト』そして、永遠の名作にして私のバイブル『タイタニック』。90年代という21世紀の背中が見え始めたこの時代は、まるで短距離走のゴール地点のごとく、多くの名作映画が横並びで20世紀のゴールテープを切った時代である。

 

そんな20世紀最後のハリウッド・エンタメ映画プチ黄金期に公開された本作は、多層的に展開する脚本もさることながら、アクションもあり、ジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽もあって、1級のエンターテイメントに仕上がっている。そして、本作で鮮烈なデビューを飾ったエドワード・ノートンの怪演も見どころの1つだ。

 

というか、エドワード・ノートンの演技を堪能するだけでも、この作品は見る価値があると言い切ってもいい。2000人のオーディションを勝ち抜き、数々の映画賞にノミネートされた彼の演技は、素人目にも「コイツぁ凄ごいぞ」と分かるほどである。

 

Spoiler Warning——ネタバレを含みます

 

正義が勝つとは限らない: テーマ性

「正義が必ず勝つとは限らない」————本作のテーマは、エンタメ映画に似つかわしくなく現実的でアイロニカルだ。

 

アーロンの弁護を引き受けたマーティンは、彼の誠実な言動から当初の考えを改めて、現場には第三者がいたと考えるようになる。「事件当時の記憶がない」「僕はやってない」と、控えめに主張するアーロンは誰の目から見ても善良な青年そのものである。

 

大司教が関与していた土地開発計画に目をつけたマーティンは、計画の中止によって損失を被る連中に目星をつける。だが、州検事からあからさまな圧力をかけられて捜査は難航する。そんな折に、聖人君子だと思われていた大司教に別の顔があった疑惑が浮上する。聖歌隊員たちに性行為を強要し、それをビデオカメラに収めるという悪趣味この上ない凶行————これが大司教の裏の顔だったのだ。

 

そして、アーロンの二重人格が明らかになる。ロイという彼のもう1つの人格は、アーロンとは真逆に暴虐的な人物。控えめでおとなしいアーロンが、抑圧され押し殺してきた感情のすべてを爆発させるために生み出した別の人格だったのだ。

 

事件現場に第三者がいたという確信のもと、無罪を主張してきたマーティンは、今さら「心神喪失」を主張することはできない。ゆえに、マーティンは作戦の変更を強いられる。法廷でアーロンを威圧し、裁判長・陪審員・検察官の目の前でロイを出現させようと試みる。

 

結果、裁判は審理無効となりアーロンは「心神喪失」を理由に無罪放免となる。「君が行くべきところは刑務所じゃなくて病院なんだ」と優しく諭すマーティン。彼の言う通り、監獄ではなく病院送りとなったアーロンだが、ここで「どんでん返し」が起きる。

 

「ブナベル検事にお詫びして下さい。首が早くよくなるように」

 

別人格のロイが出現してる最中、アーロンは記憶が無いはずである。そもそも、彼のこの主張をもとにしてマーティンは今まで弁護してきたのだ。だが、この発言は明らかに矛盾している。裁判を勝ち抜いた達成感からか、最初は微笑んで立ち去ろうとするマーティンだったが、すぐにその矛盾に気がつく。

 

そして、衝撃的なクライマックスを迎える————本来存在していなかった人格はロイの方ではなく、アーロンだったのだ。デフォルトの人格は暴虐なロイの方だった。

 

当初の思惑どおり、マーティンはテレビ画面に連日連夜顔が映り、名声も得て裁判にも勝った。だが、正義は破れた。法にのっとり、しかるべきプロセスを踏んで行われた裁判は、この瞬間に茶番と化したのだ。憲法というシステムの穴をかいくぐったアーロンの戦略にマーティンは敗れ去った。観客もまたマーティンと同様、ロイに騙されたのだ。アーロンが無実だと確信するほどに、ロイの演技は真に迫っていた。無罪が確定するまで、一体誰が彼の嘘を見破れたというのか。誰も責められやしない。正義を成そうとした結果、悪人の手助けをしてしまったマーティンは、重い足取りでロイのもとを去っていく。

 

エンタメ映画では「正義は悪より強い」と主張するのが常だ。だが、『真実の行方』は言葉にならない感情を掻き立てて、皮肉で暗い結末で締めくくる。ロイの化けの皮を剥がすには、マーティンが法を破るしかない。だが、そうすると、マーティン自身が悪へ片足を突っ込んでしまうことになる。司法はきちんと機能してその役割を果たしたのに、正義は完遂できなかったのだ。

 

正義を成すことの難しさと、その不完全性を描くこと————言いかえれば、正義と悪は見方を変えればいとも簡単にひっくり返るということ。およそエンタメ映画に似つかわしくない、現実的で重々しいテーマである。

 

エドワード・ノートンと狂気

本作で鮮烈なデビューを飾って観客の度肝を抜いたエドワード・ノートンは、この3年後に出演した『ファイト・クラブ』で映画史に残る怪演を見せることになる。偶然にも、『ファイト・クラブ』でノートンが演じたキャラクターも二重人格だった。

 

エドワード・ノートンは、そのアンニュイな顔立ちとは裏腹に狂気を感じさせる役者である。『ファイト・クラブ』で見せた狂気の片鱗は、すでに本作でちらついていた。ストーリーの中盤、マーティンがロイを責め立てるシーンで、おとなしい性格のアーロンから別人格ロイへと変貌する瞬間は、『シャイニング』でバーカウンターに座ったジャック・ニコルソンが狂人と化す瞬間と同じ香りがする。

 

映画 真実の行方 エドワード・ノートン

© 1996 Paramount Pictures | Rysher Entertainment

 

控えめでおずおずとした言動のアーロンとは打って変わって、ロイに変貌した時のエドワード・ノートンは、目つきからして全く別人そのものである。どもりがちなアーロンに対して、ロイは威圧的で攻撃的な話し方をするし、始終「キューブリックの凝視」で相手を睨みつける。立ち居振る舞いも、いかにも自信に溢れていて相手を押さえつけるようだ。

 

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』では段階的に露見していく狂気を表現して、マイケル・キートンと肩を並べた。エドワード・ノートンは、どこまでも狂気が似合う役者である。『幻影師アイゼンハイム』で見せた、どこかミステリアスな2枚目も似合うけれど、本領が発揮されるのは『アメリカン・ヒストリーX』のような狂気に染まった人物を演じる時だ。

 

狂人を演じている時、役者たちは何を考えているのだろうか。与えられた脚本からキャラクターの心情を汲み取って、それを演技として表現する。この一連のプロセスの中で、役者たちは持てる想像力を駆使してキャラクターを想像する。与えられた脚本は、単なる文字情報に過ぎない。そこから、目に見えない感情や思考を想像して役になりきる必要がある。だが、いくら想像力が豊かな人であっても全くの無から何かを生み出すことはできない。ともすれば、演じる役者自身の中にその源泉となる何かがなければならない。狂人を演じるためには、その役者の中に狂気の火種がなければならない。

 

だが、狂気を抱えていないピュアな役者はどうすればいいというのか。『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーは、ドラッグを使って自身の狂気を見出した。薬物に手を出さなくとも、何かのキッカケで自分の中の狂気に目覚める役者もいるかもしれない。

 

いずれにせよ、狂人を演じる役者というのは心の深淵部分に狂気の片鱗を持っていると私は思う。だから、自身の中に潜む狂気を抑制し、それを余すことなく演技として昇華できるエドワード・ノートンは優れた役者なのだ。

 

多層的に展開する脚本

『真実の行方』はミステリー要素とサスペンス要素が交互に展開していく。「アーロンは助かるのか?」というサスペンス要素と、「真犯人は誰なのか?」というミステリー要素。クライマックスの場面では、この2つの疑問に予想外の答えが示される。これだけでも、1級品の脚本だと言えるのだけど、本作のストーリーはこの他にも素晴らしい点がいくつもある。

 

まず、主人公マーティンという魅力的なキャラクター。魅力的というのは、リチャード・ギアの気立ての良さそうなスマイルを指すのではなく、人間的に魅力的だということ。名声を得たい、世間の注目を浴びたいという、ストーリー序盤での願いはクライマックスで果たされる。だが、彼の願いはストーリー中盤で「名声を得ること」から「アーロンを救って正義を成すこと」へと変化している。

 

ストーリー中盤、酒浸りになったマーティンが記者へ漏らした言葉は、自分が過去にした過ちとそれを悔いているというものだった。野心を隠そうともしない敏腕弁護士は、心の奥底では「今度こそは正義を貫きたい」と願っているのだ。

 

また、マーティンと対立する検察官の女性は、マーティンの元同僚でかつては恋人関係にあった人物だ。州検事の悪行を暴こうとするマーティンは、彼女の身を案じて警告する。だが、彼女はそれを受け入れようとしない。マーティンが裁判で有利に立てば立つほど、彼女はマーティンを遠ざけようとする。裁判で勝利したいが、彼女から嫌われたくもない。この板挟みになった葛藤がマーティンを苦しめる。

 

ストーリー終盤で、大司教が行っていた凶行を収めたビデオテープを彼女に渡す素晴らしいシーンがある。大司教の裏の顔を暴く動かぬ証拠だが、証拠品として提出する訳にはいかない。そこで、自分が最も信頼する彼女にそれを渡して、検察側から証拠品として提出させようというのだ。彼女を心から信頼していないと、こんなリスキーな行動は取れないだろう。彼女の怒りを買うことは分かっているけれど、それでも不正を暴きたいというマーティンの正義心が、彼女にビデオテープを渡したのだ。

 

映画 真実の行方 エドワード・ノートン

© 1996 Paramount Pictures | Rysher Entertainment

 

本作の脚本が素晴らしいのはこれだけじゃない。表向きは聖人のように振る舞っていた大司教の持つ裏の顔と、それを知りながら都市開発計画に関与していた市の上層部の思惑。いくつものレイヤーが多層的に折り重なって、協奏曲のようなハーモニーを奏であげる。精神科医の女性と面談している最中、アーロンが見せたわずかな怒りが彼の二重人格を示す伏線になっているのもじつに鮮やかな手法だ。

 

『真実の行方』は優れたエンタメ映画だが、演出面・映像面ではこれと言って際立つものもない凡庸な作品だ。だが、それを凌いで余りある、よく練られた脚本が観客を騙して手玉に取る。そこへエドワード・ノートンの怪演が合わさるのだから、文句なしに面白い。90年代の数あるエンタメ映画の中でも、ひときわ輝きを放つ名作映画である。

 

おすすめ度 

 

作品情報

原題:Primal Fear

監督:グレゴリー・ホブリット 『オーロラの彼方へ

脚本:スティーヴ・シェイガン / アン・ビダーマン

 

撮影監督:マイケル・チャップマン 『タクシードライバー』『レイジング・ブル』

音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード 『ダークナイト』

編集:デヴィッド・ローゼンブルーム

 

製作会社:Rysher Entertainment

配給会社:Paramount Pictures

上映時間:130分

 

Imdbスコア:7.7………*1

Rotten Tomatoスコア:75………*2

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