Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

劇場版 機動警察パトレイバー:押井節の乗ったエンタメ映画=傑作

劇場版 機動警察パトレイバー

 

 

Spoiler Warning——ネタバレを含みます

 

パト1は押井節の乗ったエンタメ映画

 

現在では当たり前となったメディアミックス展開。その草分け的作品が『機動警察パトレイバー 』シリーズである。漫画、OVA、テレビシリーズ、ノベライズなど作品が展開する媒体は多岐にわたる。

 

複合的に展開されたシリーズの中で、劇場版1作目にあたる本作は1つのマイルストーンと言える。これだけ大規模に展開したシリーズならば、自ずと予算はハイバジェットになる。予算が潤沢にあるとうことは、クリエイター側にとっては万々歳だが、プロデューサー側にとってはハイリスクな賭けに他ならない。

 

ましてや、そのメガホンを取るのが押井守監督なら尚のこと。なんてったって押井さんである。限りなくニッチな層に波動砲をぶち込むような、クセの強いエッジの効いた作風が持ち味の押井守監督である。(最大級の褒め言葉)

 

まぁ、一度でも押井ワールドに浸かったが最後、抜け出すことができなくなるほど中毒性は高いのだけれど、これが休日にぷらっと映画館へ足を向けた一般ピーポーにウケるかというと、なかなか難しいものがある。というか、押井監督の映画が世間一般に流布すれば天変地異でも起こるんじゃなかろうか……

 

だがしかし、『劇場版 機動警察パトレイバー(以下、パト1) 』で押井監督は、その天変地異を起こしてみせたのである。押井監督と同様にクセの塊でしかないデヴィット・リンチが『ブルー・ベルベット』で精一杯エンタメを試みたのと同じエネルギーを感じる。

 

映画が始まって最初の数分で、観客は一抹の不安を覚える。「はて、私が観ているのは本当に押井作品なのかしら? ひょっとすると、再生するディスクを間違えたのかもしれないな…… 」と独り言ちながらDVDやらBlue-rayのパッケージを裏返して監督の名前を確認し、慄然とするのである。たしかに、そこには押井守の名が刻まれていたのだから。

 

『劇場版 機動警察パトレイバー』は押井監督が撮った唯一のエンタメ映画である。後にも先にも、アニメーションの形式で押井監督が撮ったエンタメ映画は本作のみ。そして、押井監督は本作で「やろうと思えばエンタメ映画も撮れるけど、撮りたくないだけ」ということを証明してみせたのだ。そうだ、そういうことなのだ読者諸兄。押井守という稀代の映画監督は、エンタメ映画を撮ろうと思えばこんな傑作も撮れちゃう器用な監督なのだ

 

もう1人のキャラクター「下町の東京」

 

私は生まれも育ちも大阪の、根っからの関西人である。なので、東京には住んだことがないのだけれど、「東京」という言葉から連想される風景は高層ビルが立ち並ぶ「日本の首都、東京」のイメージである。だが、本作で押井監督が描く東京の街は、開発から取り残された「風化していく下町、東京」として描かれている。そこには、郷愁を誘う時代の余香があり、現代では失われた懐かしい薫りがある。

 

押井さん自身、生まれも育ちも東京である。劇中のダレ場である松井刑事が帆場の住処を巡る様子は、押井さんが本作のロケハンで辿った様子と被って見える。もし本作が、現代的で洗練された都会の街中を舞台に描かれていたとしたら、凡庸なエンタメ映画に成り下がっていたはずだ。『パト1』は、開発から置いてけぼりを食わされた、風化していく東京を舞台にしているから成立している。

 

押井作品において、作品の舞台は1つのキャラクターとして描かれる。『攻殻機動隊 / GHOST IN THE SHELL』では香港だったし、『スカイクロラ』ではアイルランドとポーランド、『うる星2』は当時押井さんが住んでいた街といった具合。

 

クリエイターには、人それぞれの方法論があるけれど、押井監督の場合は「まず語りたい世界観があってから、それにあったキャラクターを創造していく」というスタンス。因みに、押井作品のファンだと公言してる作家 伊藤計劃も、これと同じ創作プロセスだ。

 

ハリウッド映画の大半の監督が、これと逆のアプローチを取っている点が興味深い。『世界にひとつのプレイブック』などで知られるデヴィット・O・ラッセル監督はこのパターンのお手本みたいな存在で、「人物の内面にフォーカスすれば、ストーリーは自然と起き上がる」と、手がけたすべての作品で証明してみせた。つまり、ハリウッドの映画監督たちは「人間、つまりドラマ性」に興味を示すのに対し、押井監督は「まずは世界観。人間は二の次」なのである。

 

劇場版 機動警察パトレイバー

© 1989 ヘッドギア | 東北新社 | バンダイ

 

世界観やロケーションから、ある種の感情を掻き立てるという点において、押井監督はヨーロッパ映画の監督と似ている。ヨーロッパの映画監督たちは、「ドラマに興味が無いわけじゃないけど、それだけが映画じゃない」というスタンス。彼らが重視するのは、「言語では表しきれない感情」なのである。それは空気感だったり、時代の趨勢だったり、個人の人生を被覆するイメージだったりするのだけれど、ヨーロッパ映画はそれらの感情をロケーションに仮託する。だから、作品にはロングショットやらミドルショットが頻繁に登場する。

 

押井監督の場合もヨーロッパ映画の場合と同様に、風景やロケーションに「ある種の感情」を語らせる。ウディ・アレンの映画が嫌いだと公言している通り、押井監督は人間の内面を掘り下げることに重きを置いていない。ドラマ性を完全に排してしまえば、映画として成り立たなくなってしまう。押井監督の場合は、ドラマ性を完全に無視してしまうのではなく、あくまでも「二の次」なのだ。人間の内奥をガン無視して、後藤喜一なる日本アニメ史上最高級に人間くさいキャラクターが生まれる訳がない。

 

ミステリー+サスペンス=エンタメ的ストーリー

 

ミステリーとサスペンスの違い

 

ミステリーの要素とサスペンスの要素が同時に進行する————これがエンタメ的ストーリーの必要条件である。情報をちらつかせて、観客の好奇心を刺激し、いくつもの「謎」を作り出す。そして、ここぞというタイミングで謎の「答え」を明らかにし、観客の度肝を抜く。この驚きが味わいたいがために、私たちは映画を、ひいてはストーリーを求める。「どんでん返し」が人気の秘訣は、最後の最後で明らかにされる「答え」による衝撃が桁違いに大きいからだ。謎が与えられるタイミングとそれが開示されるタイミング————感情と知性の両面を満たすこと。これこそ、エンタメ映画のストーリーなのだ。

 

ミステリーとは、平たく言えば「1つの謎があって、それに対する答えが明らかになること」である。例えば、こんなストーリーを想定してみよう。男が女を銃で撃つシーンから幕を開ける映画があったとする。

 

映画が始まってすぐ、観客の頭に大きな疑問符が浮かぶ。「どうして男は女を殺したのだろう?」 ここでタイトルクレジットが入って、時間が1年前に遡る。冒頭で殺された女(A)が、男と口論している。どうやら女は、男と別れたいと主張しているらしい。この時点で観客は、頭に浮かんだ疑問に答えを出すべく、あれこれと推測を立てる————なるほど、怨恨がキッカケで殺したんだな。女の恨みほど恐ろしいものはないな、云々。

 

男はあっさりと女に出ていかれ、意気消沈の日々を過ごす。ここで、別の女(B)が登場する。失意のどん底にいる男は、女Aのことを一刻も早く忘れたいがために、新たな女Bに接近する。シーンが進むにつれて、女Bといい感じの関係に発展していく。ようやくキスした頃になって、女Aが男の元に帰ってくる。ここで、観客は新たに疑問を抱く。「どうしてAは帰ってきたのだろう?」 同時に、さきほどの推測にも修正を施す。「どうやら怨恨ではなさそうだな。Bと一緒に居たいからAを殺したのかも」といった具体に。

 

つまり、ミステリーとは「いくつもの謎を与え、適切なタイミングでそれに対する答えを与え続けること」なのである。

 

対するサスペンスはというと、文字通り「宙吊り」の状態を指す。ある1つの状況が描かれて、その結末がどうなるのかを焦らしながら描くのだ。例えば、こんな具合に。とあるビルにテロ組織が人質をとって立てこもっているシーンを想定してみよう。ビルには時限爆弾が仕掛けられていて、対テロユニットが機動隊を引き連れてビルに突入しようとしている。

 

「人質は助かるのか」「爆弾は解除できるのか」————この状況を宙吊りにして、観客を焦らすのがサスペンスだ。ビルに突入すれば、テロ組織の構成員がAKをぶっ放してくるだろう。激しい銃撃戦を繰り広げている間にも、爆弾は刻々とカウントダウンを進めていく。タイムリミットが迫る中、対テロユニットのリーダーが銃弾に倒れる。ようやく人質が居るエリアに到達できたと思ったら、テロ組織がバリケードを築いていて突破できない。人質は前の前にいるのに、助けられない。こうしている間にもタイムリミットは迫る……といった具合に。

 

1つの状況を描き、ひたすらに「焦らす」こと。これがサスペンスの本質である。

 

無駄のない脚本

 

『パト1』はミステリーとサスペンスの要素が同時に進行し、短い尺も相まって無駄のないストーリーに仕上がっている。だからこそ、押井作品でありながら1級のエンタメ映画足り得るのである。

 

帆場暎一が飛び降りるオープニングシーン。この時点で観客の頭には大きな疑問符が去来する。「どうして、この男は飛び降りたのか?」 次いで展開される軍用レイバーの暴走事故シーンでは、圧巻の作画で大規模なアクションが描かれる。このシーンの最後で、暴走していた軍用レイバーのコクピットが無人であることが明らかになり、観客は第2の疑問を抱く。「なぜ、軍用レイバーは無人で暴走することができたのか?」

 

劇場版 機動警察パトレイバー

© 1989 ヘッドギア | 東北新社 | バンダイ

 

どうやらレイバーのOSに問題があるらしいと睨む後藤さん。篠原重工が起死回生の一打としてリリースしたHOS:Hyper Operating Systemに潜む欠陥を調べる遊馬。そして、虚空に向かって吠える犬を見た遊馬は「音」が暴走の引き金になっていることに気付く。人間には聴こえない音、レイバーの鋭敏なセンサーにだけ届く音————これが一連の暴走事件の原因だったのだ。

 

吹き抜け構造のビルに風が当たることで、笛のように低周波を鳴らす。この低周波をトリガーに、HOSは暴走を開始する。シゲさんと遊馬が被害状況をシミュレーションするも、想定を下回る結果しか出ない。そこへ方舟のデータを打ち込んで再度シミュレーションを試みると、被害状況は関東一帯に及ぶという驚愕の結果が示される。だが、そのためには風速40メートルは必要だという。それを見たシゲさんは、額に手を当てて嘆息する。

 

「40メートル? やれやれこんな風、台風でも上陸しなきゃ吹くわけない……」

 

それを聴いておもむろにテレビのチャンネルを繰る遊馬。画面には天気予報が映し出され、日本列島を北上中の大型台風ありとの報が入る————シゲさんの「まさか」が現実となったのだ。

 

この展開のスピードたるや、『インターステラー』で半壊した母船に死に物狂いでドッキングした数秒後に、ガルガンチュアに向かっていると明らかになるクライマックスと同じレベルである。

 

この驚きと興奮の連続こそ、『パト1』がエンターテイメントとしても面白い理由なのだ。そして、すべてのエンタメ映画がそうであるように、『パト1』もまた私たち観客の興味を掴んで離さない。

 

そして、ストーリーはいよいよ大詰めを迎える。台風の影響で荒れ狂う大海原へと繰り出す特車2課第2小隊。冒頭ではバビロンプロジェクトの枢要として描かれていた「方舟」は、いまや破壊すべき「バベルの塔」へと化した。香貫花も合流し、特車2課は最後の決戦へと赴く。

 

だが、『パト1』のストーリーはクライマックスに差し掛かっても留まることを知らない。いや、むしろ加速する。遊馬たちが解体に使用する方舟のメインOS————そもそもの前提である、このメインOS自体がHOSのウイルスに汚染されていたのだ。遊馬の制止を無視して零式へ乗り込む香貫花。崩壊していく「方舟」————曙光が崩壊した方舟を照らす頃、暴走した零式と98式イングラムが対峙する。

 

なんとも胸熱な展開じゃないか!

 

そして、最後は押井作品には珍しく、一同はハッピーエンドを迎える。

 

これぞ1級のエンターテイメント。緊張と緩和、抑圧と開放、疑問と答え————このサスペンスとミステリーが折り重なったシンフォニーこそ、『パト1』が傑作である証しなのだ。

 

モチーフ:バベルの塔と聖書

 

押井監督は聖書的なモチーフを好む。度々インタビューで語っているとおり、押井さんの映画的なバックグラウンドはヨーロッパにある。欧州の作品を観続けた結果、興味の矛先が聖書へ向いたとしても不思議ではない。

 

『パト1』の舞台となる洋上プラント「方舟」は、その名の通り「ノアの箱舟」をモチーフにしている。主人公の名前も、泉 野明(いずみ のあ)である点も興味深い。「名は体を、体は名を表す」とは言うが、ガルム・ウォーズのドキュメンタリーの中で、押井監督は「キャラクターの名前には意味があるし、必要だ」と語っている。

 

劇場版 機動警察パトレイバー

© 1989 ヘッドギア | 東北新社 | バンダイ

 

さらに踏み込んでみると、「方舟」の外観はどこか「バベルの塔」を彷彿とさせるものがる。そして、篠原重工の生産ラインで遊馬がHOSにアクセスした時に表示されるエラーメッセージは「BABEL」である。一連の犯行を仕込んで自殺した帆場暎一は、エホバをかたどっているし、帆場の転居先には聖書の一節が書かれてある。

 

こういった意味深長なディテールが、「現実的だけど非現実的」でアンビバレンスな世界観を構築している。

 

恐怖のモチーフ:鳥

 

押井監督は作中に必ず動物を登場させる。押井犬ことバセットハウンドはもちろんのこと、時には魚であったり蝶であったり。『パト1』では、次作『パト2』と同じく「鳥」が恐怖のモチーフとして度々登場する。

 

上空から飛来する鳥には、戦闘機と同じような恐怖感がある。かのヒッチコックは、この恐怖を極限まで描いたけれど、押井監督はあくまでも象徴として「鳥」を使う。

 

後年の作品『イノセンス』では、択捉経済特区の上空に鳥が群がって飛んでいるし、ロクス・ソルス社の船の上空にも鳥の大群が弧を描いて飛び回っている。

 

劇場版 機動警察パトレイバー

© 1989 ヘッドギア | 東北新社 | バンダイ

 

『パトレイバー』シリーズの中で登場する鳥は、「恐怖の象徴」だと押井監督は語っているが、劇中で鳥を象徴的に使うことで得られる効果はそれ以上だ。映画に登場するモチーフや象徴というと、あたかも正解がありますと言わんばかりに批評家たちが「答え合わせ」をするきらいがあるけれど、私はあの類の「解説」が苦手だ。

 

映画なんて、言ってしまえば「娯楽」なわけで、観たその人それぞれの解釈があって然るべきだと思うから。「ここで鳥を登場させるのは、虚を突いてやってくる突然に起こる恐怖を体現しててね…………」なんて、こんな会話は不毛だと思う。

 

現実ではあり得ない状況で、意図的に鳥を登場させること————「作者はどうして鳥を意図的に描いたのか」といった理由を探すことよりも、「そこに鳥がいる」という特異な状況が醸し出す情感や感覚に耳をそばだてる方が大切だと思う。

 

方舟の最上階にいる鳥の大群や、帆場暎一が飛び降りる瞬間に登場するカラス。そこはかとない不気味さと、不穏な空気感。「これから何か起こるんじゃないか」という、緊張と期待。こういった様々な感情を掻き立てる手段として、モチーフや象徴はじつに効果的な手法だと思うのだ。

 

劇場版 機動警察パトレイバー

© 1989 ヘッドギア | 東北新社 | バンダイ

 

相次ぐレイバーの暴走事故とHOSの関係について、後藤さんが滔々と分析を披露する時、ふと挿入される俯瞰ショットはおそらく「鳥」の視点なのだろう。だが、ここで突然差し込まれる俯瞰ショットが醸し出すある種の異様さ・特異さは、意味の域を超えて様々な感情を掻き立てる。

 

こういった言葉にならない感覚や感情を映像ですくい取ってみせるのが、稀代の映画監督 押井守なのだ。

 

アニメという映像形式の魅力

 

押井監督いわく、「アニメにおける画面設計は全て記号である」という。どういうことか? 実写映画の場合、画面に映るオブジェクトは、すべて実在するものをカメラで収めて映像に記録される。一方、アニメの場合はというと、画面内に存在する全ての要素が手描きによって無から創造される。

 

キャラクター1人とっても、アニメの場合は一定のリアリティーを持った架空の存在として描かれる。現実感を損なわない程度に、それらは様式化(デフォルメ)されている。遊戯王のキャラクター、城之内くんの殺傷能力が高そうな髪型も、必要以上に鋭角的なコナン君の顔つきも、全ては記号である。ゆえに、アニメで極端なロングショットを使うと人物は単なる黒点と化す。実写映画では成立する超ロングショット————『アラビアのロレンス』の砂漠のシーンのように、かろうじて人物に見えるような遠景ショット————であっても、アニメではそうは問屋がおろさない。

 

要するに、アニメの場合、実写とは違ってあくまでも「記号を用いて実在する人物ないし物体を想起させている」のである。つまり、アニメとは究極のまやかし(虚構)なのだ。

 

では、その虚構の上でひたすらにリアリティーを追求することに一体どんな意味があるというのか? 虚構と現実————これこそ押井作品に通底するテーマである。

 

押井作品にとって、リアリティーは必要不可欠な土台にあたる。クリストファー・ノーラン監督が、マントラのように繰り返し唱える「リアルじゃなければならない」と同じ、脅迫観念じみたものがある。押井監督のSF作品が世界のフィルムメイカーを魅了してきたのは、その圧倒的リアリティーと独特の感性が融合しているからだ。

 

アニメーションでしか獲得できないリアリティーというものがある。アニメという虚構の上で展開される現実(リアル)には、しばしば現実を凌駕するほどのリアリティーがある。現実をそっくりそのまま切り取った映画の画面が、現実の色合いよりも鮮やかに見えるように。

 

その究極が『機動警察パトレイバー』シリーズである。

 

もし現実にレイバーなる人型ロボットが存在したとしたら、そこはどんな世界か? 『パトレイバー 』シリーズは、この仮説に真正面から切り込んだ。クリストファー・ノーラン監督が『ダークナイト』トリロジーで、「もし現実にバットマンなる自警団がいたらどうなるか?」を追求したのと同じように。

 

だからこそ、『パトレイバー 』の舞台はどこか架空の世界ではなく、東京である必要があった。「西暦2100年、某国で普及した人型ロボット」ではなく「21世紀を目前に控えた首都圏にひしめく8000台のレイバー」でなければならなかった。だからこそ、98式AVイングラムの全高は8メートルなのだ。

 

これは押井さんによるシュミレーションなのだ。押井さんはインタビューの中で、街中を歩きながらあれこれと想像を巡らせて、作品の構想を練ると言っている。『機動警察パトレイバー 』は、そんな押井さんの妄想を具現化した映画なのだ。観客は特車2課第2小隊という視点から、この押井ワールドを探索することになる。

 

ダレ場とレンズ効果: 実写映画的な要素

 

アニメで実写映画的なリアリティーを獲得するギミック————その1つがレンズ効果である。アニメーションの演出に実写映画の要素を持ち込んだのは、おそらく押井監督が最初だと思う。次作の『パト2』では、構図、レンズの選択、空気感などの実写映画的演出が芸術の域に達している。

 

『パト1』では、ギャグのシーンで広角レンズが効果的に使用されている。帆場暎一が飛び降りる冒頭のシーンも、おそらく望遠レンズを想定したショットなのだろうけれど、『パト2』ほど実写的ではないので断定はできない。

 

劇場版 機動警察パトレイバー

© 1989 ヘッドギア | 東北新社 | バンダイ

 

『パト1』全体を覆うリアルな空気感。それを構成する大きな要素は「ダレ場」である。ストーリーが進行せず、ただ風景を映したショットだけが流れる時間。押井監督は、折に触れてダレ場の必要性を説いてきた。ストーリー進行を犠牲にしても、ダレ場は必要なのだと。

 

『パト2』の記事でも書いたけれど、「ダレ場」によって観客は一旦ストーリーから離れて作品の世界観に向き合うことを要求される。つまり、一定時間の間だけ作品の世界をめぐり、その中を探索する自由を与えられるのだ。

 

『パト1』では松井刑事たちが、帆場の転居先を巡るシーンが「ダレ場」に相当する。この一連のシーンで、観客は松井刑事と共に「帆場暎一の視点」を追体験することになる。生前、帆場が見ていたのと同じ景色を、私たち観客も目の当たりにするのだ。

 

『パト1』以降、押井監督はアニメ映画であってもロケハンを敢行している。松井刑事たちが辿る「開発から取り残された東京」は、押井監督がロケハンで辿った実際の東京と同じなのだ。だから、郷愁を誘う下町の空気感が実写映画以上に現実的に感じられるのだ。

 

そして、この空気感こそ、『パト1』がアニメ映画でありながらも実写的である最大の要因である。

 

作画によるケレン味

 

アニメーションの作画には独特のケレン味がある。実際に手で描かれていることによって、実写とは違った「味」が獲得できる。「板野サーカス」や「庵野爆発」なんて、どれだけVFX技術が発達しようとも実写では絶対に再現できない。CGで描かれたモビルスーツ戦には、迫力はあれど「ケレン味」がない。やはり、作画で描かれたモビルスーツ戦の方が、重量感があって真に迫っている。

 

『パト1』でも、作画による重量感やケレン味は最大限に発揮されている。冒頭の暴走シーン、クライマックスの零式とイングラムの決戦は、作画だからこそ成立する。「方舟」の中を突き進む背景動画のシーンに至っては、実写映画以上にスピード感がある。大田が町中で大立ち回りを演じる中盤のシーンで溢れる川の水は、実写以上に本物らしく見える。

 

劇場版 機動警察パトレイバー

© 1989 ヘッドギア | 東北新社 | バンダイ

 

『パト1』がアニメーション映画なのに、実写的なのは作画によるケレン味と重量感が余すことなく発揮されているからだ。現実にあるものを再現して描かれるアニメーションが、実写映画よりも真に迫って見えるという不可逆性。この不思議な現象もまた、アニメーションの魅力なのかもしれない。

 

実写的アニメとアニメ的実写

 

『パト1』はアニメーション映画なのに実写映画以上に実写的である。言うなれば、「実写的なアニメーション」である。それに対して、昨今の漫画原作の邦画や民法のテレビドラマは「アニメ的な実写」なのだ。人物もプロットも、様式化され過ぎていて現実感がないというか、実写であるはずなのに現実感がすっぽりと抜け落ちている感じがする。

 

べつにどちらが優れているとか、そういうことではないのだけれど、昼ごはんを食べながら民法ドラマの再放送を観るたびに、この感覚を抱くのである。

 

予算の都合とか、放送コードとか、ある程度の娯楽性とか、もろもろの制約はあるんだろうなと放送局の心中はお察しするのだけれど、「なんだかなぁ~」という違和感を拭いきれない。

 

昼ごはんを食べながら再放送のドラマを見ていると、15分に1回は「そんなアホな……」と突っ込みたくなるプロットが展開する。最初は、作品を構成するディテールが描かれていないからだと思っていたのだけど、最近はストーリーテリングの差異にその要因があるのではないかと思っている。

 

西洋のストーリーテリングは、リアリズム的である。本当に言いたい無意識下の欲求を直接口に出さず、その周縁部だけを見せて中身は相手に察してもらうとする。つまり、語り口が間接的なのだ。

 

何だよ、言いたいことがあるならはっきりと言えよ!」と言いたくなるような、回りくどい語り口。実際に、日常で私たちが口にする言葉の大半は、こんな間接的な表現である。誰しも、自分の無意識下のことなんて分からないのだ。だからこそ、回りくどい表現でしかその無意識下を言い表せない。西洋のストーリーテリングがリアリズム的なのは、その回りくどさと間接的な表現によるものだ。

 

一方、日本のストーリーテリングはというと、どこまでも非リアリズム的である。邦画からテレビドラマ、アニメに至るまで、ほぼすべてのストーリーがそうなのだ。つまり、表現が直接的すぎるのだ。意識的・無意識的にかかわらず、あらゆることを口に出して表現する。あまりにもあけすけに、オープンに自らの心中をぶちまける。現実に、無意識下の欲望を言葉にする人なんて稀だと思う。だからこそ、日本のストーリーテリングは独特なのではないか。あまりにも様式化され過ぎていて、非リアリズム的なので実写作品であってもアニメ的になるのではないか。

 

調和を重んじ、和を乱さんとする日本の国民性を考えると、これはなんとも不思議な現象と言える。自己主張を明確にする西欧の文化こそ、直接的なストーリーテリングをとるべきで、日本の文化なら間接的なストーリーテリングをとる方が妥当に思える。

 

だが、実際はあべこべになっているから面白い。繰り返し言うけれど、どちらのストーリーテリングが優れているとか、そういうのではないのだ。私自身、日本の映画も観るし、舞台だって見に行くし、小説だって読む。ドラマはあまり観ないけど…………

 

ただ、『パトレイバー』シリーズを観るたび、実写映画以上に実写的なアニメと、昨今のアニメ的な実写の違いを考えずにはいられないのだ。

 

ひょっとすると、日本の映画が海外配給にかからないのも、このストーリーテリングの差異が一因なのかもしれない。製作委員会方式とか、ドラマや漫画原作とか、外部的な要因もあるけれど、日本の映像作品がImdbで低評価を下されているのを目の当たりにする度に、このストーリーテリングの差異が頭をよぎるのだ。

 

現実と虚構————虚構であるはずのアニメが現実的で、現実的なはずの実写が虚構的であるというパラドックス。

 

その境界に亀裂を入れるのが押井守という映画監督なのだ。

 

おすすめ度 

 

Hush-Hush:殿堂入り作品!

 

作品情報

監督: 押井 守

脚本:伊藤和典

キャラクターデザイン : 高田明美
メカニックデザイン : 出渕裕

 

作画監督 : 黄瀬和哉

原画:荒川眞嗣 / 竹内敦志 / 黄瀬和哉 / 奥田万つ里 / 沖浦啓之ほか

 

音楽:川井憲次

美術監督 : 小倉宏昌

美術:平田秀一 / 竹田悠介ほか

製作会社:株式会社バンダイ / 株式会社東北新社

配給会社:松竹

上映時間:100分

 

Imdbスコア:7.2………*1

*1:2019/06/08時点