Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

ギルティ:音だけで展開するサスペンス映画

映画 ギルティ

 

 

人間が聴覚から得る情報は全体のたった11%に過ぎない————公式サイトには、そんなことが書かれている。音だけでストーリーが展開していくという型破りなストーリー展開が、公開前から話題を呼んだ。しかも、驚くことに映画レビューサイトRotten Tomatoesで批評家スコア99を叩き出したというのだから、映画ファンは一日千秋の思いで公開日を待ち望んでいた。

 

「衝撃のラスト5分」とか「観客満足度100%」とか銘打った作品に限って、なまじ期待値が高すぎたばっかりに、消化不良を起こしてモヤモヤした気持ちで映画館を後にすることが多い。まるで、「あんた、これ観たら絶対泣くからな」とか「これ観て驚かなかったら、あんたおかしいよ」と言わんばかりの宣伝の仕方は、正直苦手だ。

 

『ギルティ』も同様に「全世界が熱狂するほどの驚き」を全面に打ち出して宣伝されていたので、斜に構えた態度で観に行った。結果的に言うと、宣伝で高められた期待値を大幅に下回る映画だった。なんというか、「で、それがどうしたの?」というのがエンドクレジットを観ながら抱いた最初の感想だった。

 

本作が初の長編映画となるグスタフ・モーラーが監督を務める。ヘヴィメタルのメッカ、スウェーデン イエテボリ出身のモーラー監督が脚本も兼任している。卒業製作で撮った作品が映画祭で賞を勝ち取り、本作『ギルティ』もジェイク・ギレンホールを主演に据えてハリウッドでリメイクされることが決まっている。若干31歳のモーラー監督は次世代の映画界を担う新たなホープだ。

 

Spoiler Warning——ネタバレを含みます

 

音だけで語るラジオ的な映画

 

音だけでストーリーが展開していく『ギルティ』はラジオのような映画だ。モーラー監督は、Youtubeで9・11のテロ当日の音声ファイルを聴いて「音だけで伝わる状況」に魅力を感じたのだとか。電話越しに聴こえてくる音声だけを頼りに、ストーリーが展開していく作品としては『オン・ザ・ハイウェイ』が本作に最も近い。緊急指令室という1つの場所でストーリーが展開する点は、『12人の怒れる男たち』や『天国と地獄』の冒頭を彷彿とさせる。観客に与える情報に制限を設けるという点では、『サーチ』も同じようなタイプの映画だと言える。

 

オン・ザ・ハイウェイ』は家族と仕事の両方でトラブルに対処するトム・ハーディーが、車内という密室で描かれている。プライベートと仕事の間で板挟みになって葛藤するトム・ハーディーの一人芝居は、90分間画面へ意識を集中させるのに十分すぎる魅力を持っていた。また、浮気相手と家族の間で揺れ動く感情が描かれているので、ドラマとしても見応えのある映画に仕上がっている。

 

対して『ギルティ』はどうだろうか。ヘッドセット越しに聴こえてくる音によってしか、状況を知りえないという斬新なアイデア。この設定によって生じるギャップは面白かった。音声によってしか状況を把握できないアスガーと、電話の向こう側で実際に状況を目の当たりにしている当事者との間で起きるギャップ。たとえば、子どもの死体を発見した警官が、その凄惨を極めた現場から立ち去ろうとするシーン。「ちゃんと息があるのか確認しろ」とアスガーは命じる。音声から状況を想像するしかないアスガーは、いとも簡単に、そして非情にも子どもの死体を検分させようとする。それを頑なに拒み続ける警官は、ついに反論する————見れば分かるだろ、と。ミケルの自宅へ向かわせた相棒が、手紙の束を前に諦念しきっているシーンでも、同様に情報のギャップが描かれる。「これだけの量の手紙だ。見れば分かるだろ」と、相棒は苛立ちを隠さずにアスガーへ反論する。

 

この情報量の落差を活かした点は面白かった。観客に与える情報量を適切にコントロールし、「情報の落差」をつくるのはサスペンスの常套手段だ。この落差を『ギルティ』は音声によって作り出した。ただ、90分間電話越しの音声だけで、ひたすらに語られるストーリーの形式は映像的な変化に乏しく、観ている途中でダレてくる。『Mommy / マミー』で正方形の画面サイズを用いて、観客に閉塞感を与えたグザヴィエ・ドラン監督は、劇中で何度か画面サイズを拡大することで観客の心を開放した。『ギルティ』では、この種の開放感はなく、ただ閉鎖的で息苦しい感覚が延々と続く。せめてラストシーンあたりで外へ出るか、イーヴンを映像で見せるべきだった。そうすれば、視覚情報を抑制されてきた観客の心をぱっと解き放つことができたのだから。

 

「緊張と緩和」、「抑圧と開放」、「加速と減速」————映画は音楽と似ている。これら2つの要素が交互に組み合わさって、観客は映画という感情のジェットコースターを楽しむことができる。『ギルティ』のようにずっと緊張しっぱなし、抑圧されまくりな状況では、観ていて息が詰まるだけだ。徹頭徹尾、音声のみでストーリーを語るのであればネットフリックス製作で60分くらいの長さの作品にしておけば十分だったのではないか。ストーリーテリングを完全に音だけに委ねてしまっては、わざわざ映画館で見る必要すらなくなるのではないか。自宅のソファーでくつろぎながら、ポテチを片手に見ているだけで十分こと足りるような気がしてならない。

 

結局、お前何もしてないじゃないか!

 

『ギルティ』のストーリーは直線的に展開している。音声だけでストーリーを語るという性質上、フラッシュバックを使うわけにはいかないし、場所を変えてアスガーの視点から離れることもできない。そうすれば、ストーリー展開はおのずと「イーヴンを助けること」という1本の線で描かれることになる。ただ、90分間ひたすらに音声だけで「イーヴンは助かるのか」というストーリーを伝えるのには、さすがに無理がある。

 

本作と同様に音声だけでストーリーを語る『オン・ザ・ハイウェイ』は、家族と仕事の2つの側面からストーリーを構成していた。要素が2つに増えるだけで葛藤が生まれるし、描けるプロットの幅も広がる。その点、『ギルティ』には感情の動きが無いし、終盤で訪れる「どんでん返し」はイマイチ衝撃に欠ける。まるで、魔人ブウ編でピッコロが繰り出す魔貫光殺砲のようだ。

 

しかも、『ギルティ』でアスガーのしたことと言えば、独りよがりなエゴを振り回して、いたずらに事態を混乱させただけだ。最後のシーンで、橋から身を投げようとするイーヴンをアスガーが必死になって引き止める理由が分からない。不謹慎かもしれないけれど、ストーリーの終盤でイーヴンが飛び降りようが逮捕されようが、私にとってはどっちでも構わなかった。よしんば、逮捕されたとしても精神疾患を盾に減刑を申し立てるのは目に見えているし、あれだけ凄惨なことをやっておいて「何で殺しちゃったんだろう」とか言う彼女が理解できない。まぁ、精神異常者(サイコパス)の考えることなんて、私には到底理解できないのだけれど、そんな彼女に肩入れするアスガーの心理もまったく解せない。アスガーとイーヴンが心を通わせたのは、終盤で水族館の話をしたときくらいで、たったそれだけのシーンで互いに心が通じ合うなんていくら何でも非現実的すぎる。

 

飛び降りようするイーヴンに、アスガーが銃で青年を撃ち殺した話をするシーンでは、「俺は意図的に殺したけど、あんたは違うだろ」とかワケワカメな説得を試みる。そもそも、アスガーが青年を射殺して緊急指令室へ島流しになっているストーリーは蛇足だし、どうせ使うのならもっと本筋のストーリーと絡めるべきだ。ラストシーンで、アスガーは自身の罪を背負うことを決意するが、それまでの内面描写が少なすぎてイマイチ成長した感じがしない。そもそもが、人物の内面描写が少なすぎるのだ。だから人物の成長もなければ、ドラマも生まれない。

 

「この種の映画はプロットの展開を楽しむものだから、多少の無理には目をつぶるべきだ」という声が聴こえてきそうだが、どうせやるならヒッチコックくらい巧妙にやって然るべきだ。少なくとも『ギルティ』の場合は、そのプロットも単調すぎるがゆえに自然とあら探しをしてしまうのだ。音声によってのみ展開するストーリーで、映像も変化しないとあれば、映画よりもむしろ演劇の方が適切な媒体のような気がしてくる

 

もっと映像を見せてくれ!

 

ヘッドセット越しの音声だけでストーリーを語る。この斬新な設定が本作の肝だ。しかし、だからといってストーリーの100%を音声によって語る必要はなかったのではないか。いやむしろ、ストーリーの一部を映像によって語った方が、音から想像したイメージと対比が生まれて、この設定がより際立つのではないか

 

たとえば、アスガーがヘッドセットから聞こえてくる音声だけを頼りに築き上げた想像を映像として見せる。さらに、イーヴンも映像として見せてしまう。サイコパス然とした虚空を見つめるような瞳さえ見せなければ、彼女が犯人であることは隠せる。アスガーの想像と実際のイーヴンの様子を、音声だけのシーンへ交互にインサートする。ストーリーが進展するにつれて、映像で見せる頻度をあげて緊張感を高めていく。そして、どんでん返しの瞬間にアスガーの想像を見せながら、イーヴンの狂気じみた告白を聴かせる。

 

どんでん返しの瞬間、主人公の想像だと思っていた映像と現実の映像を交差させる。こうすれば、どんでん返しの与えるインパクトも強まる。ともかく、あの息苦しい緊急司令室からカメラを移さなければならないのだ。『ギルティ』の最大の欠点は映像的な変化に乏しいことだ。映像が変化しないから観ている途中でダレてくる。いくらどんでん返しで観客の想像を破壊してみせても、そこへ到達するまでに観客が退屈してしまっては、せっかくの切り札も効果が半減してしまう。

 

それから、もう一つ『ギルティ』には決定的に足りない要素がある。人物の内面描写と、それに伴うドラマだ。優れた映画には観客の心を揺さぶるほどの説得力を持ったドラマがある。ここでいうドラマとはTVドラマのような意味ではなく、登場人物たちの間で引き起こされる葛藤や衝突を指す。たとえば、イーヴンの娘マチルデを映像で見せるだけで、『ギルティ』のドラマ性は格段に違ってくる。家族が出払った家の中で、自分の頭ほどの大きさがある受話器を抱えてアスガーと対話する少女————これを映像的に見せるだけで、彼女の置かれた不憫な状況に観客は同情する。

 

音声によって観客自身に想像させるよりも遥かに強烈なインパクトを、映像ならば与えられる。もしくは、自宅から保護されたマチルデをアスガーがいる緊急指令室へ連れてくるのもいいかもしれない。いずれにせよ、あれだけ不憫な状況に置かれた少女を映像化しない手はない。

 

他の手段で本作のドラマ性を高めようとするならば、アスガーの置かれた状況について掘り下げる必要がある。アスガーは、捜査中に青年を射殺した(かど)で島流しになっている。裁判にかけられた彼は、明日には出廷しなければならない。正当防衛を主張し、自身の非を認めなかった彼はイーヴンの事件を通して自身の罪を認める。そして、ラストシーンではおもむろに携帯電話を取り出して外へ出かける。発信相手は、おそらく彼の上司だろう。

 

かろうじて成長の軌跡は見えるが、その過程が希薄すぎる。相棒や上司との通話から、必要最低限の情報は明らかにされるが、これはストーリーが破綻しないギリギリのラインだ。自身の罪について彼がどう考え、何を思っているのかを知るには情報が少なすぎる。フラッシュバックを使って、射殺した当時の状況や殺してしまった罪悪感に苦しむ様子を見せれば、これらの情報を容易に示すことができる。さらに、映像でアスガーの過去を見せることで彼の感情面に奥行きが出て、罪悪感と正義感のはざまで葛藤する彼の姿を描くことも可能になる。

 

本作のタイトル『ギルティ』はアスガーの罪悪感を象徴したものだ。これはアスガーの罪を軸に描いた脚本なのだ。にも関わらず、劇中で描かれているドラマの部分はごくわずかで、ストーリーの大半を1本のサスペンスが占めてしまっている。90分もの上映時間を使って、音声だけでサスペンスを延々と描かずに映像で説明して時間を短縮し、残った時間でアスガーの内面を描写するべきだったのではないか。グラスに入った薬から立ち昇る気泡を呆然と見つめる、『タクシードライバー』のオマージュなんてしている余裕があるのなら、もっとドラマ性を高めるべく映像を活用するべきだ。

 

おすすめ度 

 

作品情報

原題:Den skyldige

監督:グスタフ・モーラー 【本作が初めての長編作品】

脚本:グスタフ・モーラー

エミール・ニゴー・アルバートセン

 

撮影監督:ジャスパー・スパニング

音楽:カール・コルマン
キャスパー・ヘッセラゲール

編集:ジャスパー・スパニング

製作会社:ノルディスク・フィルム・スプリング
ニュー・デニッシュ・スクリーン

配給会社:ファントム・フィルム

上映時間:85分

 

Imdbスコア:7.6………*1

Rotten Tomatoスコア:99………*2

公式サイト:『ギルティ』公式サイト

 

データ

観た場所: シネ・リーブル梅田

観た時間: 2019年2月13日 18時

観客の平均年齢: 30代後半くらい(20代~年配の方まで幅広かった)

空席の数: ほぼ0

男女比: 男性80% 女性20%

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