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グリーンブック:泣いて、笑って、ほっこりするバディムービー

グリーンブック 映画

 

 

先日発表されたアカデミー賞で前評判を覆して作品賞を含む3冠を達成した『グリーンブック』   『最強のふたり』と比較したような謳い文句で宣伝されていたので、てっきりコメディ一辺倒な作品なのかと思いきや非常にバランスのとれたエンターテイメント作品だった。まったく対照的な2人————言うなれば磁石のS極とN極のような、2人を合わせると0になるような人物設定は相棒(バディ)モノの定石だ。大ヒットドラマ『相棒』しかり、『明日に向って撃て!』しかり、すべての相棒モノがこの設定を踏襲している。『グリーンブック』は、その設定を極限まで活かした脚本が素晴らしかった。全くタイプの異なる2人が徐々に心を通わせていき、最後には硬い絆で結ばれる。互いに反発する性質の2人が変化するプロセスが丁寧に、時にコミカルに描かれているのだ。正直、本編を観るまでは先日発表されたアカデミー賞の結果には不満点しかなかったのだけれど、エンドクレジットが流れ始めた瞬間にそんな自分の浅はかさを悔やんだ。これは間違いなくアカデミー賞を受賞して然るべき作品だったのだから。

 

Spoiler Warning——ネタバレを含みます

 

KFCが示す対照的な2人

 

『グリーンブック』の主人公はヴィゴ・モーテンセン演じるトニー・リップだが、私の心にアルマゲドン並の揺さぶりをかけたのはマハーシャラ・アリ演じる天才ピアニスト、ドクター・シャーリーの方だった。常にぴんと伸ばした背筋、鷹揚なたたずまい、言葉の端々から教養が垣間見える話し方————ドクター・シャーリーはいかにも文化人といったオーラを纏っている。だが、シャーリーは多くの芸術家の例に漏れず孤独に苛まれている。

 

芸術家は孤独を愛する。孤独だからこそ凡人には見えないものが見えるし、孤独を糧にするから俗世間を忘れるような美しい作品が生み出せる。だが、そんな孤独を愛する性格が芸術家自身を苦しめることもある。ヘミングウェイはノーベル文学賞を受賞した後に猟銃を口にくわえて自殺したし、自らの耳を切り落としたゴッホは妻に愛想を尽かされて孤独に苛まれたまま自害してしまった。幼少期から非凡な才能を開花させたモーツアルトは、天才であるがゆえに生涯孤独だった。コンスタンツェと結ばれたが、天真爛漫な天才を理解できるほどに彼女は聡明ではなかった。

 

シャーリーもまた孤独な芸術家だ。スクリーンに初めて登場する時には、ジャングルの帝王のような長丈のコスチュームを身にまとい、ラスボス感漂う仰々しい椅子に腰掛けている。部屋に飾った象牙は、カーネギーホールという象牙の塔を象徴するかのよう。そんな象牙の塔へ面接にやって来たトニーは、彼の孤独を関西人的なノリと勢いで吹き飛ばす。

 

最初こそ「タバコが煙たい」とか「喋りすぎだ」とか言っていたシャーリーだが、ツアーが進むに連れて次第にトニーへ心を許していく。ツアーの序盤では、トニーが黒人やドイツ人など人種へ言及するたびに難色を示していた。だが、顔を曇らせるだけでトニーへ食って掛かる素振りは見せない。差別や偏見に直面したとき、シャーリーは自分を押さえ込み、自分を殺してじっと耐える。南部のバーで袋叩きに遭った時も、同棲愛者のかどで警察を呼ばれた時も、豚箱に放り込まれた時でさえ。

 

州法に違反したかどで留置所へ勾留されたシーンでは、そんなシャーリーの考えが明確に示されている。警官からの理不尽な取り調べに素直に従うシャーリーは、警官へ殴りかかったトニーを浅はかだと責め立てる。そして、タバコをの吸い殻を墓標のように床へ置くトニーを傍目に諭す————品位を見せつけることで抵抗の意を示すのだと。シャーリーは自身のこの考え方にしたがって、洋服店で採寸を拒まれた時もすんなりと引き下がってしまう。

 

じっと耐え続け、自分を押さえつけてきたシャーリーの感情が爆発するシーンがある。「俺の方があんたよりよっぽど黒人らしい」と言ったトニーに対して、怒りを顕にしたシャーリーは雨が降りしきる中、車を降りて歩き始める。そして、感情が爆発する————これまで鬱積していた諸々の感情を一挙に吐き出すかのように。それまでの文化人らしい余裕をかなぐり捨てて、怒りで顔を歪ませたマハーシャラ・アリの演技は本当に素晴らしかった。自分は何者なのか————白人でもなく、黒人でもない。教養ぶった白人たちは演奏を聴きに来るが、演奏が終われば他の黒人と同様に扱う。私は何者なのか長いあいだ差別と偏見に耐え続けたシャーリーの心の慟哭が、雨の中に響き渡る。本作の白眉にして、最もエモーショナルで美しいシーンだ。

 

トニーの主張にも一理ある。幼少期からピアニストとして活動しているシャーリーは、肉体労働に従事する大半の黒人と比べると経済的には恵まれている。ラジオから流れてくる黒人のピアニストは知らないし、肥やしを耕す黒人たちを前にしてハンカチで鼻を覆って嫌悪感を示す。だが、一般的な黒人とは違う世界で暮らしてきたシャーリーにも、理不尽な差別や偏見は襲いかかる。ピアニストとしては白人と同等に扱ってもらえるが、公演が終われば黒人の扱いを受ける。劇中では示されていないが、おそらくシャーリーは今まで幾度となくこういった白人の中に垣間見える潜在的な差別意識に苦しめられてきたのだろう。トニーへ感情をぶちまけるシャーリーを見て、これまでに彼が受けてきた苦しみを思うと胸が熱くなった

 

控えめで物静かなシャーリーとは対照的に、トニーは荒っぽくて口数の多い男だ。一見すると粗野で無教養だが、実際には温情のある好人物なのだ。タンクトップから飛び出しそうな太鼓腹を揺らせて、椅子から立ち上がる度に唸り声をあげるヴィゴ・モーテンセンの演技がトニーというキャラクターに人間味を与えている。クリスチャン・ベールのように僅かに眉根を寄せながら話すトニー・リップは粗野に見えるかもしれないが、その後ろには繊細で思いやりに満たされた厚情が隠れている。寝る前には家族の写真にキスするし、妻ドロレスの言いつけを律儀に守って手紙を書くし、シャーリーの演奏を聴いて心から感動する多感な男なのだ。

 

そんな好人物なトニーだが、人種に対する見方は時代の思潮に染まっている。シャーリーの使用人には見下したような態度を取るし、トリオメンバーのドイツ人には不躾(ぶしつけ)な態度を取る。またトニーはシャーリーとは対照的に決して自分を抑えない。言葉遣いや話し方についてシャーリーから指摘されても、すぐさま「Shit」と言ってのける自由奔放な性格の持ち主だ。ピアノを取り替えようとしないスタッフには拳で物を言わせるし、理不尽な取り調べを行う警官に対してもすぐに殴りかかる。

 

本場ケンタッキー州でKFCを食べるシーンは、トニーとシャーリーの対照的な姿を象徴しているかのようだ。実際の2人がどういう人物だったのかは分からないが、本作では両極端な2人として描かれている。バケツから次々とチキンを取り出して口に放り込み、脂まみれの指をシャツで拭うトニー。トニーの強引な薦めに従って、おずおずとチキンをついばむシャーリー。膝にかけた毛布を気にしながら、いかにも神経質そうにチキンを持つシャーリーとトニーの対比が明確に示される。そして、骨といっしょに紙コップまで窓から放り投げるシーンは観客の相好を崩す。

 

ツアーが進むにつれて、2人は互いに影響を受けていく。そして最後の公演のシーンでは、レストランでの食事を断られたシャーリーが初めて反抗する姿勢を示す。レストランの支配人から金を積まれたトニーは、それをきっぱりとはねつける。お互いが影響を受けて変化した様子が示された素晴らしいシーンだ。

 

つづくバーでの演奏シーンでは、シャーリーが自身のルーツであるクラシック音楽を演奏してみせる。そして、大衆音楽には疎いシャーリーが全身でグルーヴを感じながら鍵盤を叩くとき、彼の表情は歓喜と幸福で満たされている。ツアー中の演奏では決して見せなかったシャーリーの満面の笑み。演奏するシャーリーを見て満足げな表情を浮かべるトニー。8週間のツアーを通して、両極端な2人が互いを変えた瞬間————マハーシャラ・アリが代役無しで奏でる流麗な演奏を聴きながら、私の心は温かい何かで満たされていた。

 

無駄の無い完成された脚本

 

『グリーンブック』は第91回 アカデミー賞で脚本賞に輝いた。オスカーを受賞したという色眼鏡を外しても本作の脚本は素晴らしかった。上映が始まってからものの数分————オープニングのクラブのシーンで、その鮮やかな手腕に思わず唸った。オープニングシーンは脚本、映像ともに一切の無駄が無い。通常、映画が始まって最初の15分~20分は第1幕と呼ばれる。脚本家たちはこの短い時間の中で、映画の設定や世界観、主人公の人となりなどストーリーを展開するうえで必要な要素をすべて観客に説明しなければならない。

 

3幕構成 脚本

 

『グリーンブック』はその説明を無駄なくテキパキとやってのけた。オープニングのクラブのシーンでは、無駄にカットを切ることなく長回しによって映像をシームレスに見せて、場所・状況・人物を映像で示している。移動し続けるカメラは壇上で歌うシンガーから支配人、トニーまで途切れることなく鮮やかに説明してしまう。トニー・リップの名前は支配人に叫ばせることで示しているし、彼の人となりは帽子を隠すくだりで明らかにしている。意図的に帽子を隠して、あたかも自分が探し出したかのように振る舞って媚を売るトニー。たった、これだけのエピソードでハッタリをかまして糊口をしのいできたトニーの人となりが明らかになる。

 

日が昇る頃、仕事を終えて疲れ切った体を引きずって帰宅するトニー。ベットへ倒れ込んで、妻の肩に手を回す仕草はトニーの愛情深さを視覚的に示す。次いで、リビングでテレビを前にして野球中継に熱をあげる場面では、イタリア人らしく硬い絆で結ばれた親族を見せる。家に来た黒人の作業員が使ったグラスを汚らしそうに持ってゴミ箱へと捨てる場面では、彼が抱いている差別意識を視覚的に示している。ホットドッグの大食い競争では、賭け事に強いトニーの性格を示す。

 

そして、ファースト・プロット・ポイントである「シャーリーとの面接」を迎えるのだ。ここでようやくトニーの目標と動機が設定される。「ツアーを無事にやり遂げること」というストーリー上のゴール地点と、「報酬を受取るため」という動機が設定されるのだ。ここまでの時間、わずか30分たらず————まさに脚本の教科書のように、おそろしく無駄のない洗練された構成だ。

 

 

ここから展開されるプロットは、トニーとシャーリーの距離がじわじわと近づいていく様を丁寧に描きあげている。シャーリーの演奏を聴いて心を打たれたトニーは、ピアノを変えるよう劇場スタッフに詰め寄る。そして、バーでのリンチ事件や、シャワールームでの一件、留置所への勾留など、いくつもの段階を経て次第に2人は変化していくのだ。その過程がじつにリアルで情感豊かに構成されている。まるで、交響曲のようにいくつもの層が積み重なって1本のストーリーを織り上げる。

 

シンボリックなアイテムの使い方も良かった。序盤で登場した「翡翠の石」は、クリスマスを迎えて帰路につくシーンではお守りとしてコールバックされているし、クライマックスのバーでの演奏シーンでは、かつて言っていたとおりにピアノの上に乗ったグラスをそっと床へおろす。そして、なんと言っても極めつけはKFCだ。チキンを使って対照的な2人の人となりを示し、次第に縮まりつつある互いの距離を巧みに表現している。

 

そして、最後に迎えるクリスマスのシーンは、家族で団らんするトニーと孤独なシャーリーを対比させた感動的な場面に仕上がっている。力尽きたトニーに代わって自ら運転するシャーリー。所帯持ちのトニーを気遣って、何としてもクリスマスには家に帰してやりたいという彼の思いやりが伺える。これだけでも、十分に感動的なのだけれど、帰宅して象牙の塔でひとり呆然とたたずむシャーリーをロングショットでとらえた映像が、さらなる追い打ちをかける。頭頂部の薄くなった使用人を帰宅させ、とうとう一人になったシャーリーの寂しさが視覚的に示される。

 

それとは対照的に、一家でテーブルを囲むトニーはやけに口数が少なく、なにか考え事をしているような素振りを見せる。彼は葛藤している————本当に一人で帰してしまってよかったのだろうか。今からでも呼んだら来てくれるだろうかと。「ニグロ」という差別的な表現を使った親族を諌める場面は、冒頭でグラスを捨てたときのトニーとは変化したことを示す象徴的なシーンだ。そして、ドアの向こう側にシャンパンを片手にしたシャーリーが現れたとき、2人は固く抱き合う。対照的な2人が、互いに影響を与えて変化したことが視覚的に示される、素晴らしくエモーショナルなシーンだ。

 

なっち語

 

字幕界のセイント・ゴットマザー、戸田奈津子さん(通称:なっち)が字幕を担当している。なっち語の名前で映画ファンから愛される独特の翻訳は、『グリーンブック』でも遺憾なく発揮されている。「なっち」が訳す意匠に富んだ表現には色々な意見があるけれど、個人的にはかなり好きだ。吹き替え用の言葉でもなく、書き言葉でもない、洋画字幕ならではの空気感というか雰囲気は「なっち」にしか表現できない。とりわけ、侮蔑表現を訳すと「なっち」の右に出る者はいない。黒人への差別的な表現を「黒ナス」と訳すあたりが、いかにも「なっち」らしいではないか。

 

「なっち」の手腕は侮蔑表現やFワードだけに留まらない。質屋で腕時計を質に入れる場面でも「まだ懐は温かい」と訳すし、公演を終えて帰路につくシーンでは「旗色が悪いと~」と訳す。昔の洋画や海外ドラマの字幕は、こういった詩情のある表現が多かった。『刑事コロンボ』とかグラナダ版の『シャーロック・ホームズの冒険』とか。21世紀に入り、字幕の表現はかなり口語的になった。まぁ、「ら抜き言葉」が氾濫するご時世だから仕方ない気もするけれど、なんだか寂しくもある。字幕のキャプションが入る位置も、ここ数年は俳優の顔を避けて左右にずらすようになった。時代の移り変わりと共に変化してゆく映画字幕の中で、いまだに独自の「なっちワールド」を展開するセイント・ゴッドマザー。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でジゴワットと誤訳しようが、『007 スカイフォール』で敬称のMotherを母さんと直訳しようが、私は「なっち語」の持つ雰囲気が好きだ

 

『グリーンブック』では、他にも「なっち語」がたくさんあったような気がするけど、残念ながらストーリーを追うばかりで探す余裕が無かった。後日、ブルーレイを購入してからじっくりと「なっち語」を堪能しようと思う。

 

映画で人種差別を描くことの社会的意義とは

 

公演会場へ到着したシャーリーが案内される控室は、厨房の一角に据えられた狭い物置だし、シャーリーを取り調べる警官たちは彼のことを家畜のように扱う。黒人だと言うだけの理由で、逗留するホテルは制限されるし、使うトイレも白人とは区別される————まるで汚れていると言わんばかりに、黒人を白人から切り離そうとする。医学的に証明されたわけでもなく、何か明確な理由があったわけでもないのに。

 

最後の公演場所であるレストランの支配人は言う。ただ、土地の風習として、時代の潮流としてそうなっているから、自分たちも従っているだけなのだ、と。しかも、個人的に恨みがあるわけではないから理解してくれとまで付け加える始末。こんな馬鹿な話があるだろうか。これだと、何も考えず盲目的にヒトラーの命令に従ったナチの親衛隊と同じじゃないか。考えることを放棄して、集団の流れに身を委ねる————それはすなわち、自身の意志がないことと同じだ。現代の私たちから見ると荒唐無稽としか思えない、こういった不文律が当時はまかり通っていたのだから、ただただ驚くばかりだし、心底おそろしくもある。

 

人間は脆い生きものだ。ある一部の人々によって自身の生活が脅かされると思えば、すぐさま排除しようとする。自身のなけなしのアイデンティティーを守るためか、自分の弱さを隠すためなのか————何が彼らを差別へと駆り立てるのだろうか。日本のような狭い島国でさえ、部落差別や在日朝鮮人への差別がはびこっている。世界中から様々な人々が集まって建国されたアメリカ合衆国なら、その差別の全貌もより入り組んでいて複雑に違いない。

 

補足:【ホワイトスプレイニングとは】

白人が有色人種に偉そうに説教すること

 

本作を「ホワイトスプレイニング」だと非難する批評家もいるようだ。正直、『グリーンブック』を槍玉に挙げる批評家や海外のSNSユーザーには共感できない。私は純国産の日本人だし、海外で声高に叫んでいるSNSユーザーや批評家は黒人差別の歴史を背負った当事者だから、その違いかもしれないけれど、『グリーンブック』は白人を救世主に仕立て上げた映画だと非難するのは斜に構え過ぎだと思う。こういう人たちは、本作を心温まるハートフルムービーとして純粋に楽しんでいないのではないか。映画として純粋に楽しむというエンターテイメントの枠を大きく外れて、なんだか歪んだ見方をしているような気がしてならない。

 

白人が黒人をピンチから救う、白人礼賛映画に見える理由があるとすれば、それはシャーリーという人物の設定にあるように思う。そもそも、シャーリーという人物の設定があまりにも静的で受け身すぎるのだ。彼がようやく自らの意志を示し、反抗の姿勢をとるのは映画が終盤に差し掛かってからだ。しかし、だからといってシャーリーの人物設定を積極的でアグレッシブな人物に変えてしまっては、トニーとの対称性が崩れてしまう。だから結局、この設定のままで良かったのだ。ベランダに腰掛けて宵闇を見つめながら、考えに耽ってカティーサークを飲み干す————この静謐なたたずまいがシャーリーなのだ。心に抱えた傷も苦しみも決して洩らすことなく、一人で抱え込む。その絶対的な孤独感が、ドナルド・シャーリーというピアニストを生んだのだ。

 

先日の記事で、最近のオスカーはアフリカ系アメリカ人を意識しすぎて不自然だと書いた。けれど、私は映画というメディアを通して「黒人差別」という負の歴史に目を向けることは、社会的な意義があると思っている。ともにオスカーを受賞した『それでも夜は明ける』と『ムーンライト』は黒人差別を真正面から捉え、マイノリティーへの開眼に大きく寄与した。だけど、陰鬱でシリアスなこれらの作品を、インスタでセルフブランディングに余念がない若者が観に行くとは言いがたい。こういった次世代を担う層に届くような、適度なエンタメ性を備えながらもマイノリティーを啓蒙する映画として、『グリーンブック』はその見本のような作品だ。

 

映画には物の見方を変える力がある。それにいち早く気づいて悪用したのはスターリンとヒトラーだった。だが、いかに強烈な影響力を誇ろうとも、そもそも劇場へ観に行く人が少なければ意味がないのだ。間口が広く、そこそこ大衆受けしながらも社会的なテーマを軸に据えた映画————こういった映画こそ、差別を払拭しきれていない世界を、いまだに蔓延るマイノリティーへの偏見を、打破できるのではないだろうか。

 

おすすめ度 

 

作品情報

原題:Green Book

監督:ピーター・ファレリー 『メリーに首ったけ』

脚本: ニック・バレロンガ (トニー・リップの息子)

ブライアン・ヘインズ・クリー

ピーター・ファレリー

 

撮影監督:ショーン・ポーター 『20th センチュリー・ウーマン』

音楽:クリス・バワーズ

編集: ポール・J・ドン・ヴィトー

 

製作会社: アンブリン・パートナーズ

パーティシパント・メディア

コナンドラム・エンターテインメント

シネティック・メディア

 

配給会社:ユニバーサル・ピクチャーズ

ギャガ

上映時間:130分

制作費:約23億円………*1

Imdbスコア:8.3………*2

Rotten Tomatoスコア:79………*3

公式サイト:映画『グリーンブック』公式サイト

 

データ

観た場所:TOHOシネマズ 梅田 スクリーン1

観た時間:2019年3月2日 17時

観客の平均年齢:30代後半くらい(年配層多め)

空席の数:2割くらい

男女比:男性50% 女性50%

*1:Source

*2:2019/03/03時点

*3:2019/03/03時点