Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

ゲームと映画の狭間で:デス・ストランディングは、ゲームであると同時に映画だ

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11月8日、日本を代表するゲームデザイナー小島秀夫さんの最新作『デス・ストランディング』が発売された。世界中のコジマファンが一日千秋の思いで待ち望んだ新作。小島さんがコナミを退社して独立したコジマプロダクションの処女作でもある。


レア・セドゥ、マッツ・ミケルセン、ノーマン・リーダスなどの豪華キャスト陣。さらには、友情出演という形でメキシコ三羽ガラスの一人、ギレルモ・デル・トロ。独特の映像美で知られる若手監督ニコラス・ウンディング・レフンも名を連ねる。


ひとりの映画ファンとして、これは買わねばと勢い込み、小島さんの作品に一度も触れたことがなかったというのに即買いした。


学生時代、授業中にクラスメート達が熱中していた『メタルギアソリッド ピースウォーカー』。小島秀夫という名前こそ知っていたが、世間に逆行したがる私の偏屈さが、プレイする気持ちを抑えこんだ。昨年、日本中を席巻した『ボヘミアン・ラプソディ』もそうだった。大勢の人が「こりゃ傑作だわ」と諸手を挙げて絶賛していると、どうしても疎ましく思える。

どうしようもなく、偏向した性格なのだろう、多分。知らんけど……


そんな私が、小島秀夫というブランドの影響力を知ったのは、小島秀夫原理主義者を公言して憚らない伊藤計劃さんの著作を読んだときだった。
「そんなにすごいのか、この人」という値踏みするような気持ちでさっそくググってみた。トップに表示された『メタルギアソリッド』のムービーシーンを観た。映画だった。


紛れもなく映画だった。ストーリーも、ディテールも、息遣いが映画のそれだった。私の直感が声高に何かを訴えていた。
この人は、タダ者じゃない。他のゲームクリエイターとは何かが決定的に違っている。そう叫んでた。


『デス・ストランディング』が発売されるまでの間、小島さんのエッセイ『私の愛したMEME』を読んで逸る気持ちを抑えることにした。だが、気持ちは静まるどころか、むしろ高まった。


映画、小説、音楽、海外ドラマ──その圧倒的なまでのインプット量に、心の底から畏敬の念を覚えた。まだゲームに触れてもいないのに、ますます『小島秀夫』というクリエイターに興味が湧いた。


そして、待ちに待った『デス・ストランディング』

 

昔、爆発があった
この『宇宙』は、爆発から産まれた
昔、爆発があった
この『星』は、爆発から産まれた
昔、爆発があった
この『生命』は、爆発から産まれた
そしてまた、爆発が起こる
…これが、我々の目撃する『最後の爆発』になる


詩的な独白、そして安部公房の『縄』からの引用がなされ、ロー・ロアのミニマルなメロディーが耳を打つ。


気がつけば、涙がこぼれていた。生まれて初めての体験だった。映画で泣くことは多々あれど、まさかゲームのオープニングで感涙するなんて。
その精緻に作り込まれた小島ワールドに、私は天啓に打たれたような衝撃を受けた。

 

そして、何よりも私を魅了したのは、重厚なストーリーと耽美な映像表現だった。
『デス・ストランディング』は映画だ。これはゲームだ。ゲームであると同時に映画なのだ。


『デス・ストランディング』の革新性は、ゲームシステムにとどまらない。ストーリーテリング、とりわけゲームにおけるストーリーの役割を根底から覆した。


『デス・ストランディング』は傑作だ。

ゲームとしても傑作だし、映像作品としても傑作だ。

これはゲームであると同時に映画でもある。

 

そう、これこそ『HIDEO KOJIMA GAME』なのだ。黒澤明監督の作品が、ハリウッドの巨匠たちから『Kurosawa Film』と称されるのと同じ意味において。

 

ムービーシーンは必要? 不要?

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(C)2019 Sony Interactive Entertainment Inc. KOJIMA PRODUCTIONS.

ゲームファンの間でしばしば俎上に載せられるのが、ゲームにおけるムービーシーンの必要性だ。ゲームファンを公言するスピルバーグ監督ですら、ゲームは好きだけどムービーシーンは嫌いだとインタビューで語っている

 

反対派意見としては、ゲーム世界に没入するために必要だとか、キャラクターの心情からより作品に感情移入できるだとか、色々とある。
かく言う私も後者の部類で、ムービーシーンでテンションを高めてからボス戦という流れが大好きなタチだったりする。映画ファンとして、ストーリーを映像で表現するという形式そのものに多大な愛着があるのも、理由の一つ。


実写のような質感で描かれるフルCGの映像は、ぶっちゃけ言えば、めちゃくちゃテンション上がる。いや増す。


まぁ、洋画は字幕か吹き替えか、キノコ派かタケノコ派か、といった正解なんてない不毛な議論だと言えばそうなのだけれど、ひとまず考えてみようと思う。


そもそも、ゲームって何なのか?


銃でゾンビをぶちのめす。ヒゲのオジさんを操作してひたすら前進する。飛行機の運転をやってみる。色んなジャンルのゲームがある。どれもこれも、何かしら課題が与えられ、それをクリアすることで報酬が与えられる。はい、よくできました。んじゃ、次はもうちょい難しいけど頑張ってねー。といったぐあいに。


難易度が跳ね上がると、もちろんそう易々とはクリアできなくなる。フラストレーションは溜まり、横に置いたコーヒーの消費量は失敗した数だけ増していく。

それでも、やる。根性出す。

だって、クリアしたときの「うぉっしゃあああああ!!」が最高に気持ちいいから。『ゼルダの伝説』で、謎が解けたときの快感たるや。他の何にも代えがたいじゃないか。


この一連のプロセスを、ゲームを冷視するアナログ人間に言わせれば、「作業」となる。(私はこの言い方が嫌いなんだけれど、便宜上この呼称で通す)


作業をやって、完遂したら報奨が得られて、その繰り返し。


でもね、ここにストーリーが加われば──キャラクターの感情だったり、ゲームを取り巻く状況が付加されれば、この作業は途端に「任務」となる。


受動的だった「作業」から、「よっしゃ、やったるで!」という積極姿勢の塊に変化するのだ。


──ピーチ姫が悪い奴らにさらわれた。
「よっしゃ待ってろ!今すぐ行くからな!」


──味方部隊が敵地のど真ん中で立ち往生してる。
「俺に任せろ!降下ポイントに急げ──ASAP」


とまぁ、冗談はさておき……


ストーリーがあると、思わず前のめりになる。そのまま、文字通り、コントローラーを持ったまま画面に身を乗り出す。


敵を倒す、NPCの依頼をこなす。「作業」にストーリーが加われば、文脈が変わる。文脈が変化すれば、単なる「作業」に新しい意味が生まれる。どういう経緯で、状況で、理由で、それをするのか──動機(モチベーション)が大きく変化する。


私の大好きな『ヒットマン』シリーズ、その中でもゲームシステムが刷新されて古参ファンの不興を買った5作目『ヒットマン:アブソリューション』。主人公の殺し屋47が、長年コンビを組んできた相棒を殺すところからストーリーが始まる。かと思いきや、組織に追われ、自身の存在意義を問い、ストーリーは映画のように展開する。


これとて、ただ「ターゲットを始末する」だけではなくて、「唯一信頼を置いていたパートナーを殺す」という状況が加わるから、思わず呻き声をあげてしまうのだ。


ゲームにストーリーが持ち込まれると、その世界観やディテール、キャラクターの心情といった、ゲームをプレイするだけでは分からない部分も明らかになる。これによって、プレイヤーはゲームの世界を探索できるし、よりその世界に没入することができる。


人々はストーリーが好きだ。古来の神話しかり、口伝口承で遺った昔話、映画や小説、アニメしかり。ストーリーが嫌いだ、なんて人はまずいないだろう。それは人間に与えられた想像力のなせる業であり、人間だけが享受できる創造の源泉にほかならない。

 

ゲームにおけるストーリーテリング

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(C)2019 Sony Interactive Entertainment Inc. KOJIMA PRODUCTIONS.

ゲームにおけるストーリーテリング。映像によってストーリーを語ること。ゲームの流れを極力削がず、ストーリーを前進させ、世界観を見せ、キャラクターの心情を描く。これらのことを同時に、かつ素早く行おうと思ったら、至難の業だ。


同じ映像による表現でも、ゲームの場合と、映画の場合は違う。ゲームの方は、あくまでもプレイヤーが主体となる。一度上映が始まれば、時間の流れに身を委ねる映画とは違う。


時間の流れ方も、ストーリーを語るときの制約も、ストーリーテリングの性質が違う。


そして、『デス・ストランディング』のそれはゲームではなく「映画」なのだ。


ゲームにおけるストーリーテリングは、プレイヤーの手を一旦止め、ゲームプレイの流を断ち切る。プレイヤーにゲーム中断を要求する。つまり、ゲームをプレイ(遊ぶこと)が主体なのであって、ストーリーとはプレイする動機(モチベーション)を生み出す装置──主たるゲームの従属物にすぎない。


『デス・ストランディング』におけるストーリーは、ゲームをプレイする動機付けの装置ではない。ストーリーそのものが、ゲームの一部なのだ。ゲーム作品の従属物としてのストーリーではなく、ストーリーそれ自体が一つの作品として完成されている。


他人との「繋がり」を持とうとしないサム・"ポーター"・ブリッジス。


ヒッグスに裏切られ、自嘲的に自身を「壊れもの」と呼ぶフラジャイル。

 

他者との繋がりを持たないという点では、サムと同類のデッドマン。

 

絶対に死なない男という風評と、凄絶な過去の狭間で苦しむダイハードマン。

 

一人の父親として、BBを擁するサムと対峙するクリフォード・アンガー。

 

ロックネ、ママー、ハートマン。どの人物にも奥行きがある。息づかいがある。
『デス・ストランディング』という荒廃した世界の中で、散り散りになったアメリカをもう一度取り戻すべく懸命に生きる人々の姿がある。


海外ドラマ1シーズン分はあるムービーシーンで、彼らのドラマが描かれる。海外の著名な役者が演じるムービーシーンは、精緻なグラフィックと相俟って、紛う方なく映画である。


耽美的なオープニングシーン。ストーリー進行に伴ってゆっくりと表示されていくクレジットは、まだ導入部分だということをプレイヤーに暗示する。そして、サムの目指す目的が定められ、ストーリーが進むにつれて各キャラクターの細部が明らかにされる。


この重厚なストーリーは、まさに映画だ。


その証左として、ムービーシーンだけ切り取って見通しても1つの作品として成立する。ノベライズされた『デス・ストランディング』は、文庫本上下2巻に渡る。これだけのボリュームのストーリーを、ゲームの中で語るということ。しかも、著名な俳優さんに演じてもらって、それを映像化するということ。


『デス・ストランディング』は、ゲームにおけるストーリーの在り方を根底から覆す。

いまやストーリーはゲームの付属品ではなくなった。ストーリーはゲームの枢要となり、プレイ(遊ぶ)の一部となったのだ。

 

生者と死者、繋がり

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(C)2019 Sony Interactive Entertainment Inc. KOJIMA PRODUCTIONS.

『デス・ストランディング』の世界観は、単なるSFの一語で片付けられない。死者の世界と、生者の世界──その両者を結びつけるビーチ。
古代エジプトのように、この世界の人間は、肉体(カー)と魂(ハー)によって構成される。


かつてフィリップ・K・ディックは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の中で、自己同一性と宗教を描いた。『デス・ストランディング』の世界観には、これと相通ずるところがある。彼岸、此岸、三途の川といったぐあいに、死後の世界は水や川と結びつけて連想される。

 

この世とあの世の境界を「ビーチ」と名付けるなんて最高にクールじゃないか。


そして、ビーチを経由して死者の世界から生者の世界へ侵入し、「座礁」してくるBT(Beaced Things)たち。それらが引き起こすDS(Death Stranding)
触れたものの時間を早める時雨(Timefall)


こんな世界、クレイジーだ。

ぶっ飛んでる。

でも最高にクールじゃないか。


抽象的で観念的なこの世界観を、映像によって表現することで感覚的に理解できる。


『デス・ストランディング』の世界観には、生と死のほかにも「時間」と「繋がり」という要素もある。
カイラル通信は時間を遡ることが可能だし、ビーチは時間の影響を受けない。
本作最大のテーマである「繋がり」──Strand(より糸)によって、分断した世界を繋ぎなおす。


人は一人では生きていけない。だから、誰かと繋がろうとする。そうやって繋がった先には、新たな出会いや発見があって、そうして繰り返していくうちに繋がり(結び目)の数はどんどん増えていく。

 

これが、とりもなおさず、生きるということの本質なのだ。

 

人々は社会(コミュニティ)を形成し、互いに繋がりを求める。そんな中で、誰とも繋がりを持とうとしない人もいる。『デス・ストランディング』では、分離破壊主義者(ディメンス)と呼ばれる連中だ。

 

ダイハードマンの言によれば、彼らは思想の一種なのだとか。特定の指導者によって統率された組織ではない。これは、まさに世界各地で凄惨なテロを繰り返すイスラムのテロ組織と同じ形態である。彼らは指導者を持たない。互いが並列的に「繋がる」いわばP2Pソフトのような形態。

 

『007 スカイフォール』で提示されたように、いまや先進国の脅威は「形ある国家」から、「姿なき個」へと変化した。


これらの諸要素が複合的かつ重層的に組み合わさって、『デス・ストランディング』という超弩弓の世界観が成立している。


『デス・ストランディング』は単なるゲームではない。単なるSFでもない。これは『デス・ストランディング』というストーリーであり、世界だ。そして、これが”HIDEO KOJIMA GAME”なのだ。