Hush-Hush: Magazine

映画の批評・感想を綴る大衆紙

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー : 押井監督の本当の処女作

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

 

 

 

押井守、キレる

 

『うる星やつら』シリーズは、押井守の監督デビュー作である。TVシリーズで演出を務め、その間に様々な映像的な実験を繰り返し自分の中で「演出論」を確立していった、いわば「精神と時の部屋」であった。

 

そして、劇場版『うる星やつら オンリー・ユー』で押井さんは念願の監督デビューを果たす。この時、押井監督は32歳。映画はヒットし、原作者、ファン双方から高い評価を得たが、押井さん自身はその内容に満足していなかった。後のインタビューで、同時上映していた『ションベン・ライダー』の方が映画として良かったと語っている。押井監督いわく、『オンリー・ユー』は「大きなテレビ画面」だという。

 

前作『オンリー・ユー』での経験から、押井監督は「次は自分のやりたいことを貫く」と固く心に決める。そして、アニメ映画史に残る名作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が生まれた。

 

元々、原作者の高橋留美子さんが出したストーリーを下敷きに、脚本を起こす予定だったそうだが、事態は二転三転し、いつまで経っても一向に脚本が出来上がらない。後のインタビューで押井監督は「期限ギリギリまでダダをこねて時間を稼いだ」と語っている。製作期間のギリギリまで粘って、もう後がないという段階になって脚本が提出されれば、どんなプロデューサーでもゴーサインを出さざるを得ない。なんてったって、プロデューサーの使命は「映画をスクリーンにかけること」なのだから。

 

そして、押井さんの戦略は見事に成功する。当初、プロデューサーに提出したストーリー原案は、完成した『ビューティフル・ドリーマー』とは全く違うものだったらしい。製作期間を限界まで引っ張った結果、残された時間はあと僅かしかなかった。したがって、本作は脚本の完成を経ずに絵コンテが描かれた。

 

ストーリーの原案はあったのだろうが、脚本の完成稿が無い状態でいきなりコンテを切るなど常識では考えられないことである。もっとも、宮崎駿さんはいきなり絵コンテから着手することで有名だが、スティーブン・キングがプロットを書かずにいきなり初稿を書くのと同じ意味において、常軌を逸していると言わざるを得ない。

 

完成した作品を試写で目にしたプロデューサーは身の縮まる思いだったに違いないが、そこには確かに「押井ワールド」が展開されており、確かに押井守の刻印がしるされていた。ファンや原作者、プロデューサーの顔色を気にしながら、精一杯エンターテイメントに寄り添った前作とは異なり、本作で押井監督は力の限り暴走しつくしている。子豚のような可愛らしい出で立ちの「獏」が暴走する時、©マークが消えるのは著作権をかなぐり捨てるという、押井監督の決意表明に他ならない。

 

そうだ、押井監督がブチ切れたのだ。


そのブチ切れたエネルギーが作品全体に濃厚な押井節を撒き散らし、『うる星やつら』というエンタメの皮を被ったアート映画が誕生した。

 

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』こそ、真の意味において押井監督の処女作なのだ。

 

エンターテイメントの表面に押井節を乗せる

 

押井監督は『機動警察パトレイバー2 The Movie』で、それまでのエンターテイメントの流れを容赦なく断ち切った。映画が始まってすぐに「これは今までのパトレイバーじゃないぞ」と高らかに宣言してみせる。『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』でエンタメ色を出しておきながら、その余韻を切り捨てるかのように『イノセンス』では「身体と人形」というテーマをひたすらに追求し続けた。

 

ちゃぶ台をひっくり返すような、この突然もたらされる方向転換は『ビューティフル・ドリーマー』に端を発している。『イノセンス』において、義体は「身体」と対比させる対象でしかなかったように、『パト2』においても、レイバーは東京にミサイルを撃ち込むための口実に過ぎなかった。

 

つまり、押井監督にとってエンターテイメントとは、自身の語りたいストーリーを語るための装置に過ぎない。エンターテイメントという下地をもとに、押井監督の妄想を描き上げる。

 

『ビューティフル・ドリーマー』において、ラムやあたる といった主要キャラクター達は「押井ワールド」を展開させる装置である。では、本来の『うる星やつら』が持つエンターテイメントとしての役割をどこで果たすというのか————押井監督独特のギャグセンスでもって、これを代用するのだ。

 

Spoiler Warning——以下、ネタバレを含みます

 

押井節の効いたギャグ

 

映画が始まって早々、教室に持ち込まれた40トンもの重量を誇る戦車「レオパルド」が登場する。温泉マークに注意された面堂は「持ち込んでしまったものは、どうにもならんでしょう」と開き直る。

 

いやいや、そもそもどないして持ち込んだんや……

思わずツッコまずにはいられない。

 

また、長口上を垂れる校長の説教シーンでは、押井節全開のシュールなギャグが炸裂する。

 

ま、年に一度の学園祭ですから生徒諸君の自主管理の尊重という意味からもですな、校長の私が、今さら口をさしはさむというのも、なんなのでありまして・・・。

 

しかしながら、かの親鸞も申しておりますように、善人なおもて往生す、まして悪人においてをや。人はみな、ただ一人旅に出て、ふり返らずに、泣かないで歩くのであります。ああ、誰が知るや、百尺下の水の心・・・人間誰しも悩み苦しみ過ち、そして、成長し桃太郎は満州に渡ってジンギスカンになるのであります。

 

かの大ゲーテいわく、苦悩を経て、大いなる快楽に至れ、と言うようなワケでして、何はともあれ、全員ケガ一つせず何より無事、これ名馬であります。くれぐれも安全第一で、そこんとこ、よろしく

 

これなど、もはや「チューバッカ弁論」である。

 

文化祭前日の友引高校の描写は、押井監督の「暴走の局地」である。ウルトラマンや、バルタン星人、さらには犬が立ち食いスタイルでラーメンまで食ってるという無法地帯っぷり。メガネが主催する自称、純喫茶「第三帝国」など完全にナチスドイツのパロディである。

 

サクラ先生が温泉マークの自宅に入るシーンなど、ほぼ確実に抱腹絶倒は避けられない。

 

「私じゃサクラじゃ、入りたくないが入るぞ、実は先刻の…ぐぅえぇぇぇぇぇわぁぁはぁぁぁ

 

カビとコケにまみれた温泉マークの自宅に足を踏み入れるサクラ先生。絶叫しながら温泉マークを引きずり回し、挙句の果てには窓から放り投げる。

 

……もはや滅茶苦茶である。

 

背後で流れるテレビのメロドラマ。このシーンのテンションにそぐわないミスマッチな感じが、観客の腹をよじる。

 

押井作品には食事のシーンが多い。これは食べるシーンには生活感があるという押井監督の演出的な持論に基づいている。『ビューティフル・ドリーマー』の食事シーンの中でも、諸星家に集った一同が朝食を食べるシーンは、阿鼻叫喚な様相を呈する。

 

「味噌汁、お新香、納豆のみとは寂しいなぁ」と、厄介になっておきながら、厚かましいことこの上ないメガネ。

 

「これでビールがありゃぁなぁ」とパーマが言う。『スタンド・バイ・ミー』で太っちょの男の子が「食後の一服は最高だな」と、物知り顔で言うのと似た可笑しさがある。

 

面堂が「人の味噌汁に箸突っ込むな」と叫ぶ。

 

この狂騒っぷりたるや、もはや動物園である。

 

虚構と現実: 壮大な夢オチ

夢の中で感じる違和感

 

押井守監督の作品に通底するテーマ「現実と虚構」————『ビューティフル・ドリーマー』以降、どの作品でも常にこのテーマが語られてきた。

 

本作が始まってすぐに、観客はある種の違和感を抱く。荒れ地に走る戦車、屋外に置かれた家電製品、干物のようにひからびた「あたる」、廃屋と化した友引高校。そして、そこで流れる引き伸ばされた時間は、あたかも夢の中に迷い込んだかのような錯覚を抱かさせる。

 

面堂とあたるが夜食の買い出しに行くシーンで描かれる友引町の街中は、まるで夢を見ているかのような違和感がある。明かりは消え、夜の暗闇が街をすっぽりと覆い隠し、人気はどこにもない。信号で停車すると、顔の見えないちんどん屋が登場する。

 

思い返してみれば、夢を見ているとき通行人などのモブキャラの顔は、目覚めると忘れてしまっている。覚えているのは、自分の周囲にいる人物の表情だけである。夢で感じる奇妙な違和感の描写は、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』を彷彿とさせる。

 

意識と時間

 

疲弊しきった温泉マークが保健室でサクラ先生に診察してもらっている時、観客の違和感は確信へと変わる。「明日は学園祭初日ですからな」と校長が温泉に耳打ちした瞬間、先の給湯室のシーンでサクラ先生が同様のセリフを言っていたことを思い出す。

 

そして、喫茶店でサクラと温泉マークが交わす会話によって、作品内の世界が揺らぎ始めるのだ。温泉マークがデジャヴについて言及する。「初めて訪れた街なのに、何となく知っている感じがする」と。だが、サクラ先生は「それは疲れた時に脳が見せる幻だ」と一蹴する。

 

たしかに、デジャヴを感じた時に抱く違和感と、『ビューティフル・ドリーマー』を見た時に感じる違和感にはどこか共通したものがある。

 

「今日はいつなのか?」「以前の記憶があるのか?」「もしかすると、自分たちが現実だと思っているものは夢なのではないか?」————温泉マークが投げかけるこれらの疑問は、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』で人形遣いに翻弄されるゴミ収集車のオヤジが発する問いと同じものだ。

 

今こうして私たちが生きている世界だって、もしかすると現実だと思いこんでいるだけで、実は誰かの壮大な夢の中かもしれない。もし、自分以外のすべての人間が「この世界が現実だと信じ込ませる」ために存在していたとしたら? 私たちがこの世界を現実だと確信しているのは、他人の言動を観察して導き出した推測に過ぎないのではないか。現実の表層に小さなヒビをいれて、そこから虚構をちらつかせる。押井守監督の常套手段である。

 

もし、村人全員が竜宮城へ行っていたとしたら、それでも時間が経過していたことになるのだろうか? 時間の経過を観測する第三者がいなければ、それを知る者は1人もいないということになる。

 

そして、その「もしや」が『ビューティフル・ドリーマー』の世界観である。

 

タクシーの運ちゃんに変装した無邪気がサクラ先生に語る「意識と時間」の問答は、私たちが普段意識することのない「時間の流れ」へ揺さぶりをかける。

 

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

© 1984 高橋留美子 小学館 キティ・フィルム

なまじ客観的な時間やら空間やら考えるさかい、ややこしいコトになるんちゃいまっか? 帯に短し、待つ身に長し、いいますやろ。時間なんちゅうもんは、あんた、人間の意識の産物なんや思たらええのんやがな。

 

世界中に人間が一人もおらなんだら時計やカレンダーに何の意味があるちゅうねん!過去から未来へキチンと行儀よう流れてる時間なんて始めからないのんちゃいまっかいな、お客さん。

 

人間それ自体がいい加減なもんなんやから、時間がええ加減なんも当たり前や。きっちりしとったら、それこそ異常でっせ。確かなのはこうして流れる現在だけ。そう思うたらええのんちゃいまっか

 

時間の流れというものは、本来目に見えないものだ。時計によって数値化はできるものの、実際には時間の流れは体感的に早くなったり、遅くなったりする。時間とは、どこまでも主観的なものなのである。無邪気が言うように、客観的な時間なんていうものは存在し得ないのだ。

 

そもそも、時計が必要なのは私たちが社会というシステムの中で、他人と共に暮らしているからである。もし、無人島でひとりぼっちで生活していれば、時間は社会性を失い、そもそも時間を意識する必要性すら無くなるだろう。

 

あたる達は、ラムの夢の中で「文化祭前日」という1日を繰り返している。社会の執行猶予期間に相当する「学生時代」は、社会の歯車にはまだ組み込まれていない宙ぶらりんの期間である。あたる達は、メガネや面堂などの友人たちと「文化祭の準備」さえしていればいいのである。ともすれば、日付や時計に一体どんな意味があるというのか。社会性を失った時間には、何の値打ちも無いのである。

 

たしかに、無邪気が言うように人間の時間に対する認識なんて、案外いい加減なものなのかもしれない。

 

アニメだから許される嘘

 

友引町の異変を調査し始めたサクラ先生と面堂たちは、ついにハリアーに乗って上空から街の様子を確認しようと試みる。

 

「こうなったら、一蓮托生、呉越同舟じゃ。地獄の底までも付き合うぜ」と言いながら、無理やりシーハリアーに乗り込むあたる達。

 

この法外な搭載量、もはやイナバ物置である。

 

上空に到達した一同が街を見下ろすと、巨大な亀に乗った友引町が出現する。下層では姿を消した温泉マークとチェリーが亀を支えているではないか。

 

シーハリアーの翼にしがみついて上空を飛び回ったり、亀の上に街を丸ごと載せてしまったり、これらのハチャメチャな展開はアニメだからこそ可能になる。もし、実写でこんな真似をしようものなら、タルコフスキーの二番煎じみたいになってしまう。これは「アニメだから許される嘘」を逆手に取った、押井監督の演出的な戦略である。

 

これを逆手に取ったのが、「温泉マークとカクガリの類似性」と「校舎の階数」だ。「築60年、木造モルタル3階建ての時計塔校舎、いつから4階建てになったのかのォ」というサクラ先生のセリフは、校舎の設定が決まっていないことに対する皮肉である。冒頭の教室のシーンで、カクガリがモミアゲを付けて温泉マークの真似をしているのは、似たようなキャラクターを造ってしまった設定上の誤りを自虐的に茶化したものだ。

 

「責任とってね」は何を意味するのか

 

クライマックスの夢のシーンで、あたるは少女に言う。

 

お兄ちゃんはね、好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。わかんねぇだろうな。お嬢ちゃんも女だもんな。

 

普段のおちゃらけた あたると同一人物とは思えないほど、含意に満ちた台詞である。

 

ラムに似た少女が言う台詞、「責任取ってね」は何を示しているのか。そもそも、何に対する責任のことを言っているのだろうか。

 

『ビューティフル・ドリーマー』で描かれる世界は、ラムの描いた理想の世界(夢)である。いつまでもあたる達と一緒に楽しく暮らしたい、あたるを常に自分の傍に置いておきたいというラムの欲求が、この夢を作り上げた。

 

あたるはすぐに他の女の子に目移りして、ラムの傍から離れようとする。いわば、あたるとラムの関係は、夫婦のそれに近い。お互いに想い合っているが、四六時中一緒に居たくはない。いかんせん、お互いに距離が近すぎるのだ。

 

無邪気が築いた「ハーレムの夢」で、あたるは「ラムを出せ」と文句をつける。

 

いいか、よく聞けよ。オレはな、ほかの娘と同じように、ラムにもキッチリホレとる。ただアイツは、オレがほかの娘とおつきあいしようとすると邪魔するので結果的に逃げ回ってるわけだ。わかったか。わかったらラムを出せ!  ラムぬきのハーレムなど不完全な夢、肉抜きの牛丼じゃ! そんなモンぶちコワしてオレは現実へ帰るぞ!

 

あたるが「ラムに惚れている」と明言するのは、後にも先にもこの1回だけである。

 

2人が理想の関係を維持するためには、適度な距離感が必要なのだ。もちろん、すべての夫婦がこれに当てはまるとは思えないが、世間一般を見渡してみれば大半の夫婦は互いに距離を取ろうとしているのが分かる。『アニー・ホール』でウディ・アレンが言っていたように、「愛はいつか冷めるもの」なのだ。

 

往々にして、男の方が熱しやすく冷めやすい。「ほっといてくれ」と言う夫と、それを看過できない妻。あたるの行動原理は、まさに家庭を持ちながらホステスに大金を貢いで「あわよくば…」という(よこしま)な希望を抱く中年男性のそれと同じなのだ。

 

ともすれば、この「責任とってね」というセリフは、ラムの束縛を解いてやる代わりに、それに見合った形でラムを愛することを要求しているのではないか。だからこそ、現実(厳密にはまだ夢の中なのだが…)に帰ってきたあたるは、取り澄ました面持ちでラムの寝顔を見つめるのだ。

 

現実と夢の境目をぼかす映像美

 

『ビューティフル・ドリーマー』には、得も言われぬ違和感を演出するための仕掛けが溢れている。オープニングのシーンでは、ひからびた あたるの口に戦車の砲身が入っていく奇妙な構図が使われているし、後のシーンで面堂とあたるが夜の街に買い出しに出かける場面では、不自然なほど傾いだ不安定な構図が使われている。

 

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

© 1984 高橋留美子 小学館 キティ・フィルム

 

声優泣かせの長回しシーン、喫茶店でサクラ先生と温泉マークが語らう場面では、グラスに注がれた水が温泉マークの顔を半分に分ける。

 

『ビューティフル・ドリーマー』における最初の「ダレ場」シーン、諸星家から学校へ向かう場面では、現実と夢が溶け合ったような不思議な映像が使われる。

 

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

© 1984 高橋留美子 小学館 キティ・フィルム

 

道路にできた水たまりの反射————水面に写り込んだキャラクター達をスローモーションで見せるところから、この幻想的なシーンは幕を開ける。アクビをするあたるは、なぜか水たまりの中に沈んでいく。さらには、なぜか水たまりの中に魚が泳いでいる。

 

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

© 1984 高橋留美子 小学館 キティ・フィルム

 

そして、しのぶがふと立ち止まって路地を見やると、どこからともなく風鈴が現れて、彼女を取り囲む。時間の流れがせき止められ、観客は幻想的な世界に誘い込まれる。

 

この幻想的なシーンは、きょとんと立ち尽くすしのぶを見下ろしている謎の男を映して終わりを告げる。あたるのようにも見えるこの男は、演出を担当した西村純二さんによると、押井さんがモデルだそうだ。*1

 

夜中の校舎に侵入する場面など、奇妙で違和感のある映像のオンパレードだ。ラムが校舎の窓をすり抜けるエッシャー的な「だまし絵」の構図。2枚の鏡に挟まれた、無限回廊のような構図。『インセプション』でも使われていたこの構図は、「日常に潜む非現実」を描くにはうってつけの構図だ。

 

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

© 1984 高橋留美子 小学館 キティ・フィルム

いよいよ混乱がピークに達し、方向があべこべになっていく校舎の中。教室で走っているあたるは斜めになっているし、校舎の窓から身を乗り出した一同は天井に足が着いている。ラムが廊下を滑空するシーンの作画は、作画オタクを狂喜乱舞させる出色の出来栄えである。

 

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

© 1984 高橋留美子 小学館 キティ・フィルム

 

そして、このシーンの最後で校舎の時計が鳴り響き、「故障中」の札が外れる。

 

面堂が車で帰宅する場面では、フロントライトに照らされた暗闇がスピード感のある背景動画で描かれる。これと同様の演出は『パト1』でも使われていた。今ではめっきり見なくなった背景動画。変化するパースや立体感はCGの方が正確に描写できるのだろうけれど、作画によるケレン味のある動きはCGでは再現できない。

 

夢=映画 : 無邪気=映画監督

 

無邪気は、その人が見たい夢を見せるのが生業である。無邪気のやっていることは、映画監督の仕事と通じるものがる。

 

夢を設計するということは、映画をつくることと似ている。現実と虚構の境界線を限りなく曖昧にぼかしながら、観客に映画という時間を体感させる。まさに無邪気のやっていることと同じである。

 

現実に戻ろうとするあたるに、無邪気が次から次へと様々な夢を見せる場面がある。その中でも、500年のコールドスリープから目覚めたあたるが、隣で死体となって横たわるラムを見てショックを受ける夢では、最後にはそれが全てセットであったことが示される。まるで映画を撮影するかのように、セットを組んで虚構を現実だと信じ込ませる。映画のように設計された夢————そもそも映画と夢が似ているのかもしれない。

 

この後の無邪気の台詞が、それを裏付けている。

 

あんさん、夢でよかったと思うとりますやろ。現実やのうてよかったと。夢やからこそ、やり直しがききますのんや。なんべんでも、くり返せますのや。な、こういうの知ってまっか? 蝶になった夢を見た男が、目をさまして、果たしてどっちの自分がホンマやろ、もしかしたら、ホンマの自分は蝶が見ている夢の中におるんとちゃうやろか。

 

まあ、夢やら現実やらいうて、しょせん考え方はひとつや。なら、いっそのこと夢の中で面白おかしく暮らした方が、ええのとちゃいまっか?あんさんさえ、あんなムチャいわなんだら、なんぼでもええ夢、つくらせてもらいまっせ

 

蝶になった夢を見た男の話は、『胡蝶の夢』を指している。無邪気はあたるをそそのかす————現実に帰らずに、いっそのこと夢の中で面白おかしく暮せばいいのではないか、と。『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 Air / まごころを君に』で庵野監督が示したのと同じテーマである。夢(虚構)の方が現実より居心地がいいのなら、わざわざ現実に戻る必要はないのではないか

 

だが、それでもあたるは現実に戻ることを選んだ。たしかに、現実は辛いことがいっぱいあるし、虚構の方が居心地が良い。でも、人が生きるのは現実であって、虚構ではない。現実の辛さや痛みがあるからこそ、虚構の有り難さが際立つのである。

 

そして、ようやく現実に戻ってこれたと思いきや、最後の最後で実はまだ夢の中であることが暗示される。幕を外してタイトルが示され、メインテーマが流れ始める。エンドクレジットを眺めながら、このシニカルな終わり方に観客は唸らされる。

 

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

© 1984 高橋留美子 小学館 キティ・フィルム

ラストシーンで登場する無邪気のヘルメットには「〆切第一」と書かれていることからも、無邪気とは映画監督、ひいては押井監督自身だと見て差し支えないだろう。

 

つまり、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』はラムの願望をもとにして押井監督が作り上げた壮大な夢なのである。

 

おすすめ度 

Hush-Hush:殿堂入り作品!

作品情報

原作 : 高橋留美子

監督 : 押井守

脚本 : 押井守

演出 : 西村純二

 

キャラクターデザイン : やまざきかずお

作画監督 : やまざきかずお 森山ゆうじ

原画 : 山下将仁 板野一郎ほか

美術設定 : 小林七郎 森山ゆうじ

 

音楽 : 星勝

アニメーション制作 : スタジオぴえろ スタジオディーン

製作会社 : キティ・フィルム

配給会社 : 東宝

 

上映時間:98分

Imdbスコア:7.6………*2

*1:BSアニメ夜話より

*2:2019/05/04時点